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戦時中、外国人の強制収容所を目的とした「弘明寺プリズン」があったって本当?

ココがキニナル!

戦時中日本国内に居たユダヤ人の強制収容のテレビ番組の特集でユダヤ人が「弘明寺プリズン」と言っていました。弘明寺プリズン?笹下の刑務所を当時一番近い町の地名として呼んでたの?(あなぐまさん)

はまれぽ調査結果!

分かりやすいように、最寄りの大きな街の弘明寺を名付けて、横浜刑務所を「弘明寺プリズン」と呼んでいた可能性がある。

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ライター:小方 サダオ

横浜の刑務所といえば横浜刑務所



戦時中日本国内にいた外国人が強制収容された際「弘明寺プリズン」という刑務所に入れられていた、というキニナル投稿。南区の弘明寺近くにある刑務所といえば、港南区港南にある「横浜刑務所」が考えられるが、はたしてそうなのだろうか。

横浜刑務所は神奈川県横浜市にある刑務所で、1899(明治32)年に久良岐郡根岸村(現・磯子区丸山)に「神奈川県監獄署」という名称で開かれ、1936(昭和11)年に横浜市中区笹下町(現・港南区港南4丁目)に移転した。

 

横浜刑務所のある場所(青矢印)(Googlemapより)
 

京浜急行線上大岡駅から南に約1kmの距離にあり、笹下釜利谷道路沿いから一本路地に入った場所にある横浜刑務所。

 

上大岡駅から離れたところに建つ横浜刑務所
 

しかし、投稿にある弘明寺は上大岡駅よりさらに北上し、2km以上離れた場所に位置する。横浜刑務所が戦時中「弘明寺プリズン」と呼ばれていたというのは、どういうことなのだろうか。

 

横浜刑務所(青矢印)と弘明寺(緑枠)(Googlemapより)
 



強制抑留の実態とは



そこで港南区の歴史を研究し普及する活動を行っている、港南歴史協議会事務局の茅野眞一(ちの・しんいち)さんに連絡をすると、当会主催の歴史講座「戦時下の外国人と港南区」というものが行われるという。同協議会の小宮まゆみさんが強制抑留(よくりゅう)に関する講座を開くとのことで、港南図書館を訪れた。

講座の内容は、戦時中の日本国内における外国人の強制抑留について、小宮さんの著書『敵国人抑留』からその実態を紹介していた。

同著によると「神奈川県には国際貿易港の横浜があったため、外国系企業の社員やキリスト教宣教師など、多くの外国人が住んでいた。1939(昭和14)年9月に第二次世界大戦勃発後、対英米関係は悪化し、多くの日本在住の英米人が帰国した」とある。

 

国際貿易港・横浜には外国人社会が出来ていた
 

「しかし太平洋戦争開戦時の時点で、全国的に在住する英米系外国人も少なくなかった。そして1941(昭和16)年12月8日の太平洋戦争開戦ともに、全国で敵性外国人(以下、敵国人)の連行と抑留が行われ、抑留所に収容された」という。

「また民間人以外にも、外交官として大使館や領事館内に軟禁された外国人や、スパイ容疑で検挙された外国人もいた。神奈川県でのスパイ容疑などが無い敵国人の抑留所は、横浜市中区根岸の競馬場付属建物と、中区新山下町の横浜アマチュア・ローイング・クラブ(横浜ヨットクラブ)のクラブハウスに収容された。またスパイ容疑などで検挙された外国人は横浜刑務所に拘留された」と記されている。

 

神奈川第一抑留所とされた根岸競馬場
 

「そしてミッドウェイ海戦の敗北により戦局が悪くなった1942(昭和17)年夏ごろからは抑留が強化され、女性や高齢者を含む教師・宣教師なども抑留の対象となった。また1943(昭和18)年9月のイタリアの連合国軍への無条件降伏により、イタリアは日本の同盟国から敵国になったため1943年10月からはイタリア人が抑留されるようになり、1945(昭和20)年の初めごろからは、ユダヤ系ドイツ人、フランス人など敵国人抑留の対象が拡大され増やしていった」

 

居留地であった山手町には多くの外国人が住んでいた
 

「そして1945年ごろから本土決戦の備えとして、神奈川県では中国人以外の外国人を箱根地区に強制移住させ、そのまま終戦となった」とある。

同著は「従来は敵国人抑留の対象者は交換船により帰国したため、抑留者の数は減少したと思われていたが、実際は抑留の対象を変え増大させていた。幕末の開港以来形成されてきた横浜の外国人社会は戦争による抑留により崩壊した」とまとめられている。歴史ある外国人社会が戦争により壊されたことは、横浜にとって深い傷となったと言えよう。

 

抑留された外国人も眠る山手の外国人墓地
 



文献に残る「弘明寺刑務所」の記述



小宮さんに「横浜刑務所が弘明寺プリズンと呼ばれていた」ということに関して伺うと、文献の中にそのような記述があることを教えてくれた。

まずは「フリーメイソン」であるとしてスパイ容疑で捕まった貿易商のマイケル・アプカーのことを記した大山瑞代(おおやま・みずよ)著『アルメニア人アプカー一家の三代記』(『横浜と外国人社会』より)には「アプカーが弘明寺の横浜刑務所(当時の住所は横浜市中区笹下町731)にいると分かると、家族は毎日食事の差し入れをした。材料を工面して食事を作り、山手町の自宅から電車を乗り継いで弘明寺まで通うことが日課になった」とある。

 

強制移転先の軽井沢でのアプカー一家(『横浜と外国人社会』横浜開港資料館編より)
 

またアプカー家の研究者である大山さんに伺うと「フリーメイソンであったために治安警察法違反容疑で投獄されたアプカーについて、『グミョウジ・プリズン GumiogiPrison (原文ママ)に送られた』と、アプカー夫人の手記には記されています」とのことだった。

 

横浜刑務所の全景(『横浜刑務所の偉容 横浜刑務所編』より)
 

さらにスパイ容疑で逮捕された聖公会の牧師ヘーズレット師の回想記・サミュエル・ヘーズレット著『日本の監獄から』(『立教学院史研究』第8号より)には「12月20日の2時半に私は手錠をかけられ3人の警官に伴われ、タクシーに乗せられ、横浜郊外の弘明寺にある大きな刑務所の未決囚拘置所に移された」

 

独居房外観(同)
 

「~中略~弘明寺刑務所は鉄筋コンクリートのかなり近代的な建物である」などと書かれている。

これらの記述にある、「弘明寺の横浜刑務所」や「グミョウジ・プリズン」などの呼称は、外国人が呼びはじめたものなのだろうか。それとも看守など周りの日本人が呼んでいたことが影響した可能性はないのだろうか。

 

独居房内部(同)
 

「弘明寺刑務所」の呼び名について小宮さんに伺うと「戦争中外国人を抑留していた神奈川第一抑留所は、始めは根岸の競馬場でしたが、1943(昭和18)年6月から北足柄村内山に移転しました。この内山の抑留所は、外国人もその家族も警察官もほとんどの場合『山北』の抑留所と呼んでいました。これは最寄りの駅が御殿場線の山北駅だったからです。したがって横浜刑務所を弘明寺と呼んだのは、最寄駅が市電の弘明寺だったからではないでしょうか」とのことだった。

 

弘明寺駅前を走る市電(『横浜市電の時代』天野洋一より)
 

弘明寺は市電の終点であった
 

刑務所のそばの最寄駅、という理由でそう呼ばれるようになったのだろうか? そこで弘明寺に向かった。