市民も誰も知らない? 横須賀を作り上げた英雄・デッカー司令官って何者? 後編
ココがキニナル!
横須賀市民から「英雄」とされるデッカー。米海軍横須賀基地司令官として軍務そっちのけで市民救済に注力。学校や病院建設のために占領地を返還。目標は「日本一の都市・横須賀」(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
戦後、4代目米海軍横須賀基地司令官として辣腕をふるったデッカー司令官。病院、学校、養護施設など彼の足跡は今も残っている
ライター:やまだ ひさえ
前編では横須賀の歴史に多大な影響を与えたデッカー司令官の功績を振り返った。
後半では、現代まで受け継がれ、守られているデッカー司令官の情熱をお届けする。
彼の残した功績とは?
親しまれる「ベース」
明治から戦前までは旧日本軍が駐留する軍都として、戦後からは米海軍が駐留する基地の街として、その名を知られている横須賀。
地元では親しみをこめ、基地を「ベース」と呼んでいる。
ベース内
現在、ベース内では横浜スタジアム約90個分に相当する広大な敷地に米軍基地が設置されており、地上・海上勤務合わせて約2万人が働いている。
今回は特別な許可をいただき、米海軍横須賀基地司令部など、ベースの内部を撮影させてもらった。
米海軍横須賀基地司令部
米海軍横須賀基地司令部の隣には、在日米海軍司令部。すなわち、現在、日本国内に駐留する米海軍基地を統轄する司令部がある。
在日米海軍司令部
建物は関東大震災後、耐震・耐火構造に配慮し建設された旧日本海軍の横須賀鎮守府庁舎を使用している。
1945(昭和20)年8月30日、連合国軍として横須賀に進駐した米海軍に接収された。
入口には在日米海軍のロゴ
2つ星は「少将」の階級を意味している。
通常は関係者以外立入禁止の建物内も特別に見せていただいた
1926(大正15)年に造られた内部はメンテナンスで当時の姿を維持
在日米海軍司令部の指揮系統が一目で分かる
アメリカ軍の最高司令官はトランプ米大統領
在日米海軍司令部は6つの米海軍基地を統轄・管理している
現在では、司令部が日本の米海軍を全て管理しているが、進駐当初の組織は異なっていた。
初代となるバジャー司令官、2代目のオリバー・O・ケッシング司令官、3代目のハロルド・M・ブリッグス司令官が考えていたのは、「基地を爆破し全員をアメリカに帰還させろ」という考えを持っていて、「ベース」をまったく重要視していなかった。
それに異を唱え、横須賀基地の重要性を説いたのが4代目司令官・ベントン・ウィーバー・デッカー大佐だ。
横須賀市再建の恩人と称えられている
アメリカの軍人として、日本人の手による初の胸像が作られるほどの功績を横須賀市に残したデッカー司令官。残念なことに現在では彼を知る市民はけして多くはない。
2011(平成23)年5月、翻訳・発売されたデッカー司令官と奥様のエドウィーナ・N・デッカー夫人の回想録『黒船の再来』を紐解きながら、今なお横須賀に残る彼の功績をたどってみた。
デッカー夫妻の功績の全てが詰まっている
翻訳を行った横須賀学の会の代表・大橋祥宏(おおはし・よしひろ)さんが市民の視点から見たデッカー司令官像を語ってくれた。
デッカー司令官の功績を記憶している貴重な世代