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「京都」由来の地名って本当? 横浜市平安町と川崎市川崎区京町の歴史に迫る!

「京都」由来の地名って本当? 横浜市平安町と川崎市川崎区京町の歴史に迫る!

ココがキニナル!

横浜市と川崎市の市境を挟んで整然と区画された平安町(横浜)と京町(川崎)。両町の名前を合わせると「平安京」ですが、これは碁盤の目状の区画に因むものなのか。真相が気になります。(秀左衛門さん)

はまれぽ調査結果!

「京浜」から名前を分けた「京町」と「浜町」が両町の由来。直後に浜町が「平安町」に改名され、京の町割りを意識した不動産販売戦略が行われた

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ライター:はまれぽ編集部

隣接する横浜市鶴見区の「平安町」と、川崎市川崎区の「京町」の由来に関する投稿が寄せられた。
確かに、地図で見るこのエリアは碁盤の目のように整理された区画になっており、今も整然とした町割りで知られる京都の町に近いようにも見える。
 


地図上では「平安京」っぽい?

 
とはいえ、新興住宅地などの整然とした街並み自体はそれほど珍しくもないはず。
果たして町名の真相はどこにあるのか。早速調査を開始した。



横浜市平安町、命名の由来は「明らかでない」
 


現在の平安町の街並み。ごく普通の住宅街という印象だ

 
まずは、横浜市平安町の由来について調べてみる。

自由新聞社が1930(昭和5)年にまとめた『鶴見興隆誌』によれば、「平安町は元と川崎市田島村と潮田町に接せる地にして、多くは菅澤町地内で在つたが、大正十五年の頃区画整理を行ひ、濱町と称し、一丁目、二丁目を置く。昭和二年四月一日横浜市に編入し、現在の町名となる」(仮名遣い等は原文ママ)とまとめている。
 


「平安町」の名前は1927(昭和2)年から使われているようだ

 
昭和の初めに横浜市に編入する時まで、平安町を含む一帯は「浜町」という地名だった。現在も平安町の南、入船小学校のある一帯には横浜市浜町の町名が残っている。

 

この場所にある市立入船小学校も、かつては「浜小学校」だったという

 
なぜ浜町を「平安町」という名前に変えたのか、横浜市側の資料では判然としない。横浜市が刊行した『横浜の地名』を見ると、「『平安』の由来は明かでないが、川崎市の『京町』と関連して名付けたと考えられる」(原文ママ)というもやっとした記述だ。
 


市編入後に設立した市立平安小学校

 
京町に関連して「平安」の名前を付けたという以上、「平安京」を意識した名前なのは間違いなさそう。そのあたりの事情を知るために、お隣の川崎市川崎区「京町」の由来を含め、もう少し歴史を遡ってみよう。



川崎運河の開発と宅地造成

いまの平安町や京町を含む一帯は、かつて「小田村」と「菅沢村」の境目にあたり、湿地・沼地が広がる水田地帯だった。多くの農業用水路があった一方で、あまり人は住んでいなかった。

1916(大正5)年、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)がそんな湿地帯に運河を掘る計画を立てた。ここに工場を誘致し、運河で工場用の物資を運搬する予定だったようだ。

土地買収を進めた京浜電気鉄道は、1922(大正11)年に運河を完成させ、開削した土砂で両脇の田畑25万坪(約82万6400平方メートル、ハマスタ31個分)を埋め立てて工場用地を作った。
運河は現在の川崎市立京町小学校のあたりから、旭運河の辺りまで続くもので「川崎運河」と呼ばれた。
 


川崎運河があった大体の位置(赤線)(© OpenStreetMap contributors

 
運河沿いの工場用地にはいまのゴム通りに名前を残す横濱護謨製造(横浜ゴム)などがやってきたものの、第一次大戦後の不況もあって思うように売れない。そこで計画を変更し、住宅用地として販売されることになった。
 


運河の始まり付近は、今の川崎市立京町小学校
 

造成当時の川崎運河。現京町小付近の「船溜まり」(京急電鉄提供)

 
住宅用地とするための区画整理が行われた際、土地を造成した「京浜電鉄」から文字を取り、運河沿いの東京寄りを「京町」、横浜寄りを「浜町」と名付けた。これが1926(大正15)年のこと。

先述の通り、浜町部分が横浜市に編入し、名称を「平安町」に変えるのは翌年のこと。平安町が浜町だったのは、わずか1年間だった。
 


京町にも隣接する「平安公園」。浜町だった名残は、地域には見当たらない