浅間町に石碑が建てられるほどの先生ってどんな人物?
ココがキニナル!
市営バス浅間町車庫の隣の公園に石碑があります。ある学校の先生を偲んで建てられたそうで、「TVの金八先生より教育熱心な人だった」と聞きました。どんな人物だったのでしょうか。(濱のホタルさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
先生の名は木村坦乎氏。困窮児童の救済に勤しみ、私費で学校を設立。関東大震災で命を落とすまで、子供達の未来の為に奔走し続けた教育者だった。
ライター:クドー・シュンサク
その昔、横浜にいた非凡に教育熱心だったという人物についてのキニナル。
まずは、その先生を偲んで建てられたという石碑のある公園を訪ねた。
浅間車庫前、木村坦乎(キムラタンコ)氏の石碑
石碑は、横浜市営バスの浅間車庫前停留所からほど近い、浅間車庫前公園にあるという。
浅間車庫前公園。ここにその石碑が
よくある児童公園、しかも敷地は巨大なものでもないので、石碑はすぐ見つけることができた。
そして、その石碑の状態を見て、少しばかり驚きを隠せなかった。というのも、木村坦乎先生は没後2年で石碑が建てられたというのだが、さかのぼると今からおよそ90年近く前に建てられたことになる。長きの時間を過ごした石碑のコンディションでは考えられないほど、それは綺麗なものだった。
石碑の前には、供えられて間もないと思われるほおずきが
汚れひとつなく、綺麗に手入れされている様子がうかがえる
調べたところによると、木村先生は大正3年、自身が勤めていた帷子(かたびら)小学校を自ら退職。その理由が、当時地方各地から横浜に集まった労働者の子供達が、貧困の為学校に就学できないことを知り、子供達を救済すべく学校を作るためだったとされている。
そして、浅間町大新田に12畳半ほどの寺子屋式、授業料無料の『隣徳(りんとく)小学校』を作った。設立にかかる費用はすべて、退職金を含む木村先生の私費からのものだったという。
そんな木村先生の行動のすべては、教育者として子供達の未来のためを思ってのもの。帷子小学校で恩給資格(恩給とは公務員が一定の年数以上在職して退職した場合や病気で退職した場合などに給付される年金のこと)を受ける2ヶ月前の4月に退職。それは学校に行けない子供達のこと知り、いてもたってもいられなくなり、自らの恩給という保障には目もくれず、いち早く子供達が教育を学ぶ必要性を重んじていたからだとされている。
まさに、理屈がない正義感といえる。
木村坦乎氏。教育への温情と情熱で学校を設立させた偉人
(「木村担乎先生を偲んで」のコピーより)
隣徳小学校が、この地域においての教育や福祉の歴史背景としては始まりとされている。
それを現在まで受け継いだかたちとされている、浅間コミュニティハウスという施設が石碑のある公園の近くにあったが、耐震問題を含めた諸事情で、今は移転し跡地は解体工事の最中であった。
浅間コミュニティハウス跡地。この辺りに隣徳小学校があった
その温情と情熱で学校まで設立した、木村坦乎氏の人柄やエピソードを知る人物がいるということで、横浜市シニア大学講師・横浜西区郷土史研究会会長である田村泰治さんにお話を伺うことにした。