神奈川区・神大寺の「塩の道」はどこへ続いていたのか?
ココがキニナル!
50代半ばの人が小学生の頃「ど田舎」だったという神大寺の当時の様子や、江戸時代「塩の道」と呼ばれた「塩舐め地蔵」前を通る道のルートが知りたい。地名の由来のお寺はどこ?(ねこぼくさん/おおまるさん)
はまれぽ調査結果!
高度経済成長期まで神大寺は純農村地帯だった。町名の由来となる寺は戦国時代に建立されたが、やがて小机へ移る。また、「塩の道」を探ると八王子~金沢八景、さらに鎌倉へ続くルートが見えてきた。
ライター:結城靖博
近くに神奈川大学・略称「神大(じんだい)」があることと、深大寺そばの連想からついつい「じんだいじ」と呼んでしまいそうな神奈川区神大寺(かんだいじ)。その町名の由来となる寺は果たしてどこにあるのか?
まずはその調査から始めてみよう。
神大寺に神大寺はない
グーグルマップで見ると神大寺の町は下のようなエリアだ。
赤枠内が神大寺1~4丁目の全域
この地図をいくら拡大して隅から隅まで探してみても「神大寺」という名の寺は見つからない。ではなぜ、この地域にその名がついたのか。その答えは19世紀前半に編さんされた『新編武蔵風土記稿』の中に記されていた。
お硬い漢語調の原文を要約すると、神大寺の地名の起こりは、戦国時代に小机(こづくえ)の城代だった笠原信爲(かさはら・のぶため/?~1557)が、この地に神大寺を建立したことによるという。
だがその後、2世住職天叟順孝(てんそう・じゅんこう)の代に寺は小机に移り、寺名を「雲松院(うんしょういん)」と改める。一説では寺院移転の理由は火災によるものとか。
雲松院は現在もJR小机駅の近くにある
雲松院の場所。駅と寺を隔てる道路は「横浜上麻生(かみあそう)道路」
門前には寺院の歴史を伝える解説板があった。
ただし神大寺からの移転については、文中にまったく触れられていない
この曹洞宗の禅寺は院号こそ雲松院となったが、寺号は今も「神太寺」だ。
寺号をよく見ると「大」ではなく「太」。実は神大寺の地名自体が、昭和初期に区制がしかれ神奈川区神大寺町となるまでは「神臺地」「神代寺」「神太寺」とも書かれ、『新編武蔵風土記稿』の中でも「神太寺村」と記されている。
では神大寺村に建てられた“元祖”神大寺は、どの辺りにあったのか。その史実を明確に示す資料はないが、『新編武蔵風土記稿』には、笠原信爲の墓は雲松院本堂の山の中腹にあるが、元々は神大寺村にあったものを移したと書かれている。
現在の雲松院本堂
また太平洋戦争中、神大寺の中心近くに位置する「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」の付近から、「骨壺」が発見されたとも言われている(戦時中の混乱で紛失)。
塩嘗地蔵の場所(神大寺4丁目13)
もしその骨壺が笠原信爲のものだとしたら、神大寺はこの近くにあり、「塩嘗地蔵」は寺の門前に配置されていたということが推定できる。
塩嘗地蔵は自治会掲示板の左隣にあるが、この位置からは見えない
神大寺の今昔を比較検証
かくして本稿に「塩嘗地蔵」が登場した。キニナル投稿の「塩嘗地蔵前を通る道」とは、まさに上の写真の道のことだろう。
だが、この地蔵堂と「塩の道」の関係を探る前に、写真を見ての通り今では住宅地の目立つ神大寺周辺の、昔の様子を振り返ってみたい。
1978(昭和53)年に刊行された南神大寺小学校の『五周年記念誌』には、神大寺の今昔が児童向けにわかりやすくつづられている。
それによれば江戸時代の1855(安政2)年頃は、戸数26戸、人口161人の農村だったという。この状況は明治になってもあまり変化はなく、「世の中の大きなかわり方にも関わらず、田畑の仕事に明けくれる日々」(同書より)だったという。
下の地図は、現在と1906(明治39)年の神大寺周辺を比較したものだ。
左が1906年、右が現在(『今昔マップon the web』より)
明治時代後期でもほとんどが田畑で、その中に民家が点在しているのがわかる。
だが、その様相が大きく変化するのが昭和40年代(1965~74年)、つまり市内どこにも共通する農地から宅地への開発が急進する高度経済成長期だ。とくに1970年代に入ると「横浜ハイタウン」や「南神大寺団地」など、南部を中心に大型団地の建設が加速する。
左が1971年、右が現在(『今昔マップon the web』より)
上の地図の左はそのちょうど過渡期を示すものといえる。今と比べれば、まだまだ住宅はまばらだ。
では、キニナル投稿者が言う「50代半ばの人が小学生の頃」の神大寺はどんなだったろう。残念ながら、その頃の様子をとらえた神大寺町の写真は見つからなかった。
だが、神大寺に近い神奈川区西部の羽沢町(はざわちょう)の、当時の風景をとどめる写真が残されていた。
「羽沢町の釈迦堂周辺」1975年撮影(横浜市中央図書館所蔵)
こんもりとした雑木林の森。その前に野菜畑が広がっている。今から半世紀ほど前の神奈川区西部の農村地帯は、おそらくどこもこのようなのどかな光景だったのだろう。
それがうなずける景色を、現在の神大寺でも目にすることができた。
下の写真は、塩嘗地蔵前の通りを、西へもう少し進んでいったところで撮ったものだ。
通りの脇に住宅地を遠く望む大きな畑が広がっていた
神大寺町内には現在でも「農業振興地域」「生産緑地地区」の区域があり、都市型農業に積極的に取り組んでいるという。
ここは宅地と農地が共存する、ある意味ぜいたくな地域だ