【横浜の名建築】横浜能楽堂 染井能舞台
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第30回は、『横浜能楽堂 染井能舞台』明治時代に作られた華奢で優美な能舞台は、数多くの名人が演じた歴史が凝縮した緊張感のある美しさを湛えていた
ライター:吉澤 由美子
紅葉坂を登って神奈川県立の音楽堂と図書館が並んでいる裏手、掃部山(かもんやま)公園の横に横浜能楽堂がある。
西に回ると富士山、東はみなとみらいの高層ビルが見える立地
内部にある本舞台は、歴史ある「染井能舞台」を復原したもの。
染井能舞台は能楽堂の中に再建されている
案内してくださったのは、横浜能楽堂のアシスタントプロデューサー、熊谷敬子(くまがいたかこ)さん。
能の世界に広がる豊かな面白さを教えてくれた熊谷さん
染井能舞台の歴史
染井能舞台は元々、1875(明治8)年に東京・根岸にあった旧加賀藩主、前田斉泰(まえだなりやす)邸に建てられたもの。加賀藩は能楽がとても盛んな土地柄で、前田斉泰は明治維新前後に衰退しかかっていた能や狂言の復興に尽くした人物。この能舞台は、隠居し根岸の地に住んだ斉泰を慰めるため、家来衆が庭に建てたもの。
その後、1919(大正8)年に東京・染井の松平頼寿(まつだいらよりなが)邸に能舞台が移築され、「染井能舞台」と呼ばれるようになった。
第二次世界大戦中に空襲で東京の能舞台の多くが焼失した中、染井能舞台は被害を受けなかった。地の利もいい染井能舞台は、戦後の能再興本拠地として全盛を極め、錚々(そうそう)たる名人・上手がこの舞台を踏んだ。
小津安二郎監督の映画「晩春」で、笠智衆、三宅邦子、原節子が能を鑑賞する場面にも使われた
その後は1965(昭和40)年に解体され、保管されていた部材は観世流能楽師である田邊竹生(たなべたけお)氏より横浜市へと寄贈される。そして、1996(平成8)年に復原された染井能舞台をおさめた横浜能楽堂がオープン。現在に至っている。
能楽 能と狂言
今から600年ほど前、室町時代にはじまった能楽。足利義満(あしかがよしみつ)に保護を受けた観阿弥(かんあみ)と世阿弥(ぜあみ)の親子が、「猿楽(さるがく)」に様々な要素を取り入れ、芸術性の高い洗練された舞台芸能へと大成した。
戦国時代や安土桃山時代には多数の武将に愛され、江戸時代になると能は幕府の式楽(しきがく)となり、御殿や武家屋敷で公式行事が行われる際に、広間などの前庭にある能舞台で上演された。
建物風の壁が屋外に置かれていた能舞台を思わせる
能楽という言葉は明治時代になって作られたもので、能と狂言の両方を含んでいる。歌舞中心の能と、喜劇性の強いセリフ劇である狂言は古来から関係が深く、この2つを交互に演じる形式も古くから伝わっている。
能は、謡(うたい:歌)、舞、囃子(はやし:演奏)の要素からなる。足を床から離さずに移動する足運びが基本で、静かで抑えた動きの舞や、男性による仮面劇という点に特長がある。一方、狂言は基本的にセリフ中心で、神様や動物の狂言面を除き面をつけないという違いがある。
展示廊には面などが飾られている
600年以上に渡って、一度も絶えることなく伝え続けられた長い歴史を持つ能楽は、国の重要無形文化財であり、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。
白梅の咲く華奢で優美な能舞台
能舞台は元々屋外に作られた。舞台と見所(けんしょ:観客席)が建物の中に入って「能楽堂」という形になったのは明治以降だ。
普通の舞台と違い、能舞台は真横から見る席もある
舞台は見所に向かって大きく斜めに張り出していて、本舞台、囃子方などが座る後座(あとざ)、地謡が座る地謡座(じうたいざ)、橋掛かり(はしがかり)と、大きく4つの部分にわかれている。橋掛かりの先にある揚幕(あげまく)の向こうは鏡ノ間(かがみのま)だ。
手前に本舞台、左奥が橋掛かりでその先に揚幕。本舞台の右が地謡座
本舞台は4本の柱で囲まれた5.91m(京間3間)四方。その横に張り出しているのが地謡座。本舞台の真後ろにあるのが後座で、その背後には鏡板がある。通常は松しか描かれない鏡板だが、この本舞台では通常より細い松に白梅、そして根笹が描かれている。梅は、前田家の家紋の剣梅鉢(けんうめばち)にちなんだもの。鏡板に梅が描かれているのは、この染井能舞台だけだ。
鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹