外国人墓地で聞かれる戦後の混血嬰児遺体の話とは?
ココがキニナル!
終戦後、山手の外国人墓地には連日のように混血嬰児の遺体が遺棄されたという。その数は数百になり埋葬場所に困ったほどと聞きます。当時の様子を調査して頂きたいです。(orcaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「根岸外国人墓地」周辺は、草木が生い茂り密かに遺体を遺棄できそうな場所だったようだが噂が本当かを証明するものは見つからなかった。
ライター:橘 アリー
白い十字架にまつわる都市伝説
横浜には、「山手外国人墓地」「根岸外国人墓地」「中国人墓地」「英連邦戦没者墓地」と、外国人墓地が四つあり、キニナル投稿の墓地は、JR山手駅から2~3分の所にある「根岸外国人墓地」であろう。
ここには「数百にも及ぶ混血嬰児(嬰児とは生まれたばかりの赤ん坊のこと)の遺体が遺棄されているのではないか?」と言う噂話しが囁かれている。その噂話しの根拠は、「以前、数百にも及ぶ木で作った白い十字架が、びっしりと墓地に立てられていたから」というものであるようだ。
現在でも、この墓地には朽ちかけた白い十字架の残骸が数個残っている。
十字架は、高さが約50cmほど
この墓地には、本当に数百にも及ぶ混血嬰児の遺体が埋葬されているのだろうか?
そして、数百にも及ぶ白い十字架は、混血嬰児たちの為のものだったのか?
根岸外国人墓地が出来た経緯
根岸外国人墓地の入り口
横浜が開港してから2年後の1861(文久元)年には、山手の外国人墓地が手狭になったが、拡張する土地が無かったので、1880(明治13)年9月30日に日本政府が居留外国人の要望を受け、根岸村字中尾の地に新しい墓地を造る事を認めた。
しかし、墓地の管理問題や立地が不便だったこともあり、墓地が本格的に利用されるようになったのは、横浜市に管理が移管された1902(明治35)年のことのようである。墓地の面積は7400㎡。
墓地に入ると、小さな管理事務所の建物がある。
管理事務所の建物
事務所内には管理人さんが居たので、「キニナル投稿」の内容について訊ねてみたが、「横浜市から委託されて、墓地内の清掃などをしているだけだから分からない」とのことだった。墓地を訪れる人もほとんど居ないそうだ。
この日も、墓地を訪れている人は居なかった。墓地内はきれいに清掃され、霜柱が張り凍てついた地面は、歩くとサクッと音をたてる。
墓地内で一番目を引くものは、何と言っても、片翼だけの天使の翼の像を模した慰霊碑である。
1999(平成11)年に横浜山手ライオンズクラブによって建てられた
この慰霊碑は、根岸外国人墓地に眠る全ての魂がやすらかであるように願って建てられたもので、埋葬されているとすれば、混血嬰児たちの魂を慰めるものでもあるだろう。
キニナル投稿では、戦後、混血嬰児の遺体が数百にも及ぶとあるが、これはおびただしい数である。では、当時の嬰児の死亡率はどうだったのだろうか? 厚生労働省の人口動態統計で確認してみた。
人口動態統計100年の年次推移(明治32年~平成10年)
厚生労働省HPより
確かに、当時は現代と比べて、乳児の死亡率は高いようだ。
それでは、当時の墓地の様子はどうだったのだろうか?
地元の歴史研究家と墓地へ
永年、根岸外国人墓地のすぐ傍にお住まいの、横浜の歴史研究家である岩永正矣さんに、墓地を案内して貰いながらお話を伺った。
岩永さんは、横浜のガイドや国際会議での通訳などもされている
墓地に眠る人々の80%ほどは、現在は無縁の状態になっているそうだが、著名人のお墓も幾つかはあった。
関東大震災で亡くなったアメリカ領事キリヤソフ夫婦のお墓(左)と副領事のお墓
ストローク氏のお墓
上の写真は、当時「呼び屋」と言われていたそうだが、世界の一流の音楽家を日本に紹介したストローク氏(イタリア・1965年没)のお墓。これは朝日新聞社によって建てられたものである。
外国人震災慰霊碑
関東大震災の震災復興資金で横浜市によって建てられた「外国人震災慰霊碑」もある。
毎年、9月1日には横浜市によって花がたむけられている
ドイツ艦船爆沈事故の犠牲者61名を偲んで建てられた慰霊碑
1942(昭和17)年11月30日の横浜港停泊中のドイツ艦船爆沈事故の犠牲者61名を偲んで、1994(平成6)年に、ドイツ大使館と横浜山手ライオンズクラブによって建てられた慰霊碑。
岩永さんはこの事故も記憶していて、数日の間、海上から炎が上がっていたそうだ。
この慰霊碑の前で、毎年11月に「墓前祭」が行われ、その時に墓地に隣接している仲尾台中学や立野小学校の生徒たちによって墓地の清掃も行われている。