戦後混乱期もにぎわったという戸塚競馬場の歴史を教えて!
ココがキニナル!
戸塚の汲沢団地のところが元は競馬場で隣接する戸塚高校のグラウンドは観覧席だったとか。短命で終わったらしいが、なぜ潰れてしまったのか 、当時のにぎわいはどうだったのか(海の狸さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
汲沢の戸塚競馬場は法改正により8年で閉場、当時の日本競馬史上最高の大穴が出たり熱狂的ファンと警察が一触即発になったりするなどにぎわった
ライター:ナリタノゾミ
1930年代、JR戸塚駅に西口しか存在しなかったころ、吉田町の柏尾川沿岸には、おでんや饅頭を販売する屋台が並び、大いににぎわったという。
人々の目当ては、入場無料の競馬見物。このにぎわいが、戸塚駅東口建設の契機となった。
その後、戸塚競馬場は戦時体制の強化などの理由で、吉田町(便宜上、以下、「一代目戸塚競馬場」とする)から汲沢(以下「二代目戸塚競馬場」とする)へと移転することになるが、わずか8年で閉場してしまう。
とりわけ資料が少ないとされる戸塚競馬場の歴史であるが、現在の街並みを確認しながら、短命に終わった二代目戸塚競馬場の様子と当時のにぎわいに触れてみたい。
戸塚競馬場の誕生と汲沢への移転
一代目戸塚競馬場が開設されたのは、1933(昭和8)年。
戸塚駅のほど近く、現在の日立製作所横浜研究所(戸塚区吉田町292)および横浜市立東戸塚小学校(戸塚区吉田町88)の敷地を含む一帯に設けられた。
戸塚駅東口から、日立製作所横浜研究所と横浜市立東戸塚小学校を望む
日立製作所横浜研究所正門
戸塚競馬場の経営は神奈川県畜産組合連合会による。1948(昭和23)年にGHQの勧告により競馬法が改正されるまでの間、民営競馬が許されていたのだ。
水田を埋め立てて作ったコースは8の字型。コースの内側には田畑が残っていたといい、牧歌的な雰囲気が漂う競馬場だったようだ。
幅30メートル、馬場周囲1600メートルという広さは当時日本で最大レベルだったという。
一代目戸塚競馬場の名残を求めて同地を訪れたが記念碑などは存在しない。
日立横浜工場の守衛・木村さん(仮名)によると、同工場の敷地内にも名残はないとのこと。
もっとも、「柏尾川に架けられた橋の名前は競馬場にちなむようですよ」と、木村さん。
その橋は、柏尾川にかかる「駒立(こまたて)橋」だ。
国道1号側から駒立橋と日立製作所横浜研究所を望む
同橋は、矢部町と日立製作所横浜研究所のある吉田町をつなぐ
厩舎(きゅうしゃ)から競馬場に向かう途中、この橋付近で支度が整えられたことから、駒を仕立てる橋ということで「駒立橋」と呼ばれるようになったのだという。
第二次世界大戦勃発後の1942(昭和17)年、戦時体制強化に伴い、設備・立地ともに評価された一代目戸塚競馬場は、軍用馬の訓練場となり正式に閉場する。
かくして、戸塚競馬場は吉田町から汲沢へと移転し、二代目戸塚競馬場として再スタートを切った。