江の島にある児玉神社ってどんなところ?
ココがキニナル!
江の島にある児玉神社を取材してください。また明治維新頃まで江ノ島には三重塔があったそうです。どんな塔だったのかキニナル。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
児玉神社は明治時代に活躍した陸軍大将・児玉源太郎を祀った神社。台湾総督だった児玉を敬愛する李登輝元総統の揮毫による扁額(へんがく)もある
ライター:松崎 辰彦
児玉神社の祭神・児玉源太郎
小田急江ノ島線・片瀬江ノ島駅から歩くこと15分から20分。江の島入り口の大きな鳥居をくぐり、さらに進んだ左手に忽然(こつぜん)と現れるのが児玉神社である。
江の島にある児玉神社
祭神は「児玉源太郎命」(こだまげんたろうのみこと)。
児玉源太郎
明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852〈嘉永5〉年~1906〈明治39〉年)を祀った児玉神社は、創建が1918(大正7)年。その後1921(大正10)年に後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立された。
児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建され、現在は山本白鳥宮司が訪れる人々を迎えている。
山本白鳥宮司。風邪のためマスクを着用されていた
かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命されたのが1980(昭和55)年5月のことだった。
児玉源太郎という人物は、日露戦争の東郷平八郎や乃木希典といった著名な軍人と比べて若干、知名度が劣るのは否定できない。これに関して山本宮司は、
「ご祭神(児玉源太郎)は参謀でしたから、ご自分が表に出るのではなく、人を立ててみずからは陰に隠れるというタイプでした」
と説明する。
境内にある狛犬
「ご祭神については年々歳々、知れば知るほど偉大な、立派な方だったことがわかります」
軍人としてのみならず、政治家としても大変な功績を挙げたという児玉源太郎。その足跡は、今日まで影響を及ぼしている。
児玉源太郎が日本を勝利に導いた
児玉源太郎は1852(嘉永5)年に現在の山口県周南市に生まれた。幼くして父を失い、姉の夫である義兄に養育されたが、義兄も源太郎が13歳のときに佐幕派(幕府側の勢力)のテロリズムにより殺され、その後一家は困窮の道を歩んだ。
1870(明治3)年6月、18歳で兵学寮(陸軍士官などの養成機関)を卒業した彼は、1874(明治7)年に「佐賀の乱」に従軍し負傷するも、その2年後の1876(明治9)年に起こった「神風連の乱」では暴徒に対して適切な処置を行い、上司先輩の激賞を受けたという。
1891(明治24)年、児玉少将はヨーロッパ視察旅行を行い、ドイツ軍躍進の背景には大規模な兵器産業の存在があることを悟る。帰国後は日本の兵器生産の促進に尽力した。
ロシアとの関係に緊張が走り、武力衝突の可能性が見え始めたころ、児玉(当時中将)は内務大臣の重責を担っていたが、前任者の急死を受けて、降格となるにもかかわらず参謀本部次長就任を受け入れた。
かつて日本軍の参謀育成を請け負ったドイツ帝国のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少将は、日露戦争の勝敗に関して「コダマがいるかぎり日本陸軍がロシア陸軍に勝つ」と新聞記者に断言した。
メッケル少将
この予言は現実となった。
台湾経営を成功させる
日露戦争を勝利に導いた児玉だったが、彼の大きな功績の一つに台湾総督として適切な統治を行ったことが挙げられる。
1895(明治28)年に下関条約により清国から割譲され、日本の植民地となった台湾だが、その経営は当時の日本政府には相当の負担であった。とりわけ各地に出没し、集団で統治機関や住民を襲撃する土匪(どひ。略奪や暴行を行う土着民)の平定は急務であった。
1898(明治31)年、台湾総督に就任した児玉は民生長官の後藤新平とともに力を尽くし、彼らを恭順させ、台湾の治安を改善させた。さらに台湾の産業を振興させ、インフラを整えた。
後藤新平による詩碑が立てられている
台湾経営は児玉の優れた統治能力によって成功し、軌道に乗ったのだった。