検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

  • 36年ぶりに完全復活「横浜銀蝿 40th」。オリジナルメンバーで再結成!
  • 神奈川県内の横浜家系ラーメン店がどこにあるか地図からすぐわかる!横浜の観光情報「よこはまっぷ」
  • イベント開催、店舗オープン、新商品発売などリリース情報を配信したい方へ
  • はまれぽ.comにあなたのお店・会社を無料で掲載しませんか?

横浜にこんなすごい会社があった!Vol.4「日本で初めてコインロッカーや国産自動車用キーを開発、株式会社アルファ」

ココがキニナル!

横浜にこんなすごい会社があった! 第4回は日本で初めてコインロッカーや国産自動車用キーを開発した、総合ロックメーカー「株式会社アルファ」をご紹介!

  • LINE
  • はてな

ライター:吉田 忍

日本で初めてコインロッカーを製造


 


新宿駅に設置された日本初のコインロッカー ※写真提供株式会社アルファ


1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催され東海道新幹線が開通した年、日本で初めてのコインロッカーが新宿駅に設置された。当時、荷物は駅などに手荷物預かり所があり、そこに預けるものだった。コインロッカーは一般に認識されていないものだったので「セルフサービス」と掲示され、詳しい取り扱い方法が書かれていた。ちなみに当時の価格は50円(JRの初乗り運賃が20円、タクシーの基本料金が100円だった時代)。
コインロッカーという名称は、実は同社の商品名。一般名称になるほど親しまれる名称となった。
 


日本初の自動車用キーを製造


 


最初の車ではないが、1958(昭和33)年製のダットサンがショールームにあった
 

ドアキー部分にカバーが付いている


日本初の自動車用電子キーを作ったのも同社。現在、各社に供給しているが、日産自動車のほぼ100%がアルファ製。
 


世界初のペーパーカード式ホテル錠システム


 


1979(昭和54)年に開発した世界初のカード式ホテル錠システム


ホテルの鍵は同じ鍵を不特定多数の人が使うので複製の不安があり、また紛失があった場合には鍵全体を交換しなければならない。これに対して、同社が開発したこのカード錠システムは、カードに打ち込まれたコードを読み取り、合致すれば解錠する。さらに同じ部屋でもお客様毎にコードが変わるので、安全性が格段に向上した。

実は同社の“初”はこれだけではない。新しい認証システムなど中には新しすぎて受け入れられなく、当時は製品化されなかったものもあるそう。株式会社アルファは鍵の分野で常に時代を先取りし、一歩も二歩も先を行くリーディングカンパニー。
このような先進的な社風はどのように培われたのだろう。会社の歴史を伺った。
 


株式会社アルファの歴史



創業者和田和一(わだ わいち)氏は、1900(明治33)年、大阪に生まれた。幼少期に両親を亡くし、乾物店の養子となるが、その養父もすぐに亡くなり、その乾物店の跡を継いだ主人(同様に養子だったがかなり歳がはなれていた)に育てられたが、その二人目の養父も和田氏が10歳のときに他界。
両親とその後の養父二人を亡くした少年は、ほかにすべもなく(当時の)義務教育を終えた13歳で金物製造会社へ奉公に出る。

最初の3年間は薪割りや掃除などの雑用だけ。次の3年間で技術を仕込まれる。最後の3年間は一人前として認められるものの、当時はお礼奉公という習慣があり労働条件は劣悪なものであった。そんな境遇の中でも夜間の工業高校に通い、技術習得に必死に取り組んだという。

9年間の奉公を終え22歳の時、手回しボール盤(穴を開ける機械)を1台購入し独立。金物製造の下請けを始めた。1923(大正12)年、これが株式会社アルファの始まりである。

そして、海外の先進技術の習得に熱心で行動力があった和田氏は、わずか3年後にはシリンダー錠製造の先駆となる。「錠前メーカーの一番」になりたいと思い、ギリシャ文字の一番最初の文字「α」から、アルファの商標を和田製の鍵につけた。
 


初期のアルファロゴ ※写真提供株式会社アルファ


事業が順調に成長し、15人ほどの従業員を雇うようになった1927(昭和2)年ごろ、和田氏は詐欺に遭い多額の借金を抱え私財一切を手放すことになる。いち早くシリンダー錠に目を付けるなど、チャンスを逃さない性格と行動力が、逆に詐欺師につけ込まれることになってしまったのだ。
 


和田氏28歳の頃 ※写真提供株式会社アルファ


1930(昭和5)年、和田氏はその腕と人柄を見込まれた支援者から援助をうけ、東京・大森で再出発する。シリンダー錠の製造技術で特許を取り、1933(昭和8)年には日産自動車(当時は自動車製造株式会社)の自動車用キーを開発し採用される。それまで日産は「国産自動車」をうたい文句にしていたが、鍵だけはアメリカ製だった。
 


昭和初期の大森工場 ※写真提供株式会社アルファ


こうして、和田氏の個人企業であった会社は、1938(昭和13)年に法人組織、国産金属工業株式会社となる。

その後戦争を経て、昭和30年代になると戦後復興景気と共に自動車産業は好調に業績を伸ばし、大量発注を受けた同社も前途洋々となる。ところが好事魔多し、1959(昭和34年)5月、大森工場で火災が発生。主工場の半分を消失してしまう。
 


焼け落ちた工場 ※写真提供株式会社アルファ


自動車部品の納期を送らせるわけにはいかない。幸い鋳型(いがた)は焼けずに残っていた。そこで鋳型を同業者の工場に持ち込み、その工場の終業後の夜中に機械を借りて製造を続けたという。

「社長が作業服を着て焼け野原になった工場の後片付けを頑張っている姿を見たら、社員はみんな意気に感じて“俺たちも頑張ろう”という気になるものだよ」と、あるOBが当時のことをこう語ったと伝わっている。

その後の同社は、前項で紹介した多くの日本初の製品などで順調に業績を伸ばし、1990(平成2)年に本社を川崎市に移転し、社名を現在の株式会社アルファに変更。1993(平成5)年に現在の横浜市金沢区に本社を移転した。