三十数年で絶えた中華街発祥の「幻の周ピアノ」震災や空襲、戦後の混乱に翻弄された歴史に迫る!
ココがキニナル!
5月11日に4年かけて修復が完了した初代周ピアノが横浜山手中華学校に帰郷すると聞きました。中華街と周ピアノの歴史が気になります。(toyoko-さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
周ピアノ創業者、周莜生は中華街にピアノ販売店を構え、関東大震災で亡くなり、二代目・周譲傑が引き継ぐが空襲によって工場が焼失した
ライター:ほしば あずみ
幻のピアノ
かつて、横浜中華街でピアノが製造されていた。現存するものは少なく「幻のピアノ」とも呼ばれる「周(しゅう)ピアノ」とは、一体どのようなピアノなのだろうか。実は2013(平成25)年の横浜山手中華学校へ寄贈された初代周ピアノの後、2014(平成26)年に入って横浜開港資料館にも1台の周ピアノが寄贈されている。
横浜開港資料館では2014年6月29日まで周ピアノを展示。無料で見学できる
2003(平成15)年から周ピアノの調査を続けている同館の主任調査研究員、伊藤泉美(いずみ)さんに、周ピアノの歴史とその運命を伺った。
きっかけは一枚の絵はがき
周ピアノの調査を続けている伊藤さん
伊藤さんは、もともと中華街の歴史の調査研究を行っている。その過程である時、一枚の絵はがきに描かれている店の軒先に掲げられた看板に目がとまった。
大正初期の中華街を描いた絵はがきの左側の看板に・・・(横浜開港資料館所蔵)
三本の音叉(おんさ)を組み合わせたマークと「PIANO MAKER」の文字
(絵はがきの部分拡大)
「この看板に気がついて、ピアノを製造していたんだと興味を持ったのがきっかけでした」と伊藤さん。
この絵はがきは、現在の中華街南門通りを元町方面から眺めた様子で、今の媽祖廟(まそびょう)に近い場所に周ピアノはあったという。
伊藤さんは言う。
「現在の中華街は飲食店や物産店が立ち並ぶイメージですが、幕末の開港以降やってきた華僑の人々は、“西洋技術の伝達者”という側面がありました。西洋人の文化に合わせて、洋館建築や活版印刷、洋服製造などの先進技術を、当時イギリスとの航路があった上海や香港などの準本場仕込みで身に着け来日していたんです。ピアノ製造もそのひとつでした」
約90年の時を経て、ほぼオリジナルの部品のまま演奏可能な初代周ピアノ
周ピアノの始まり
周ピアノの創業者、周莜生(しゅうしょうせい)は1877(明治10)年、中国浙江省鎮海県(せっこしょうちんかいけん)に生まれ、上海のイギリス系楽器商S・モウトリィ商会の製造工業でピアノの調律と製造技術を身につけた。
1905(明治38)年に、モウトリィ社横浜支店を引き継いだC・スウェイツ商会の招聘で、部下2人と共に来日。スウェイツ商会で働きながら、中華街の一角にピアノ製造の研究室を作り、余暇などを利用しながらピアノの試作にあたっていたという。
1909(明治41)年、数名の熟練工と共にスウェイツ商会を退社した周莜生は、1911(明治44)年6月下旬ごろに、山下町123番地に周興華洋琴専製所(しゅうこうかようきんせんせいしょ)の看板を掲げる。34歳だった。
『ジャパン・ディレクトリ』1913(大正2)年の周ピアノの広告
(「製造元祖横浜風琴洋琴ものがたり」2004(平成16)年横浜市歴史博物館・横浜開港資料館編集)
そのころのピアノの価格は、最も安い輸入ピアノが275円くらい、国産ピアノがモデル別に250~350円、スウェイツ製は400円だった。当時の公務員の初任給は14円程度なので、ピアノは現在とはくらべものにならないほど高価で、富裕層や学校が主な客だった。
ちなみに輸入ピアノの高価なものは1500~1600円するものもあり、現在でいえばヨットを所有する感覚に近かったともいえるだろう。
周ピアノは小型の150円(現在まで未発見)、300円、350円のモデルを販売していた。
そして、2009(平成21)年に山手中華学校に寄贈され2013(平成25)年に修理を終えた周ピアノは、この広告とほぼ同型で、愛知県安城市の安城高等女学校(現県立安城高等学校)の備品だったものを個人が譲り受け、保管してきたもの。安城高等女学校は童話「ごんぎつね」で知られる新美南吉(にいみなんきち)が教鞭をとった学校でもあり、新美が赴任していた時期と周ピアノがあった時期は同じだという。
長く学校で使われてきた歴史のあるピアノにふさわしい場所として、中華街と縁の深い山手中華学校が寄贈先に選ばれた。
横浜山手中華学校