大船が本気で「日本のハリウッド」を目指していたって本当!?
ココがキニナル!
日本のハリウッドを目指した大船を知りたい。田園都市開発され、鎌倉山に別荘地と巨大スタジオ+ビバリーヒルズはハリウッドにウリ二つ。松竹アパートや山椒洞も解体中です(katsuya30jpさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1935年「東洋のハリウッド」を目指し田園都市開発された大船は1970年ごろ映画関係者でにぎわい撮影所は2000年に完全閉鎖。今は若干の遺構のみ
ライター:ほしば あずみ
農村だったアメリカの「ハリウッド」が映画撮影の中心地になったように、かつて大船が「田園都市」として開発され、数々の映画作品が輩出された時代があったことをご存知だろうか。
ハリウッド付近の街並み(フリー素材より)
「田園都市」はもともと産業革命の進むイギリスで生まれた都市計画の構想。日本では明治時代の終わりごろに紹介されて以来、郊外型の住宅地の開発計画として発展した。
鉄道などで交通の便が確保され、都会から一時間以内程度の距離で自然豊かな環境がある住宅地が「田園都市」として開発されていく。
田園調布で有名な「洗足田園都市」、たまプラーザなど田園都市線沿線に広がる「多摩田園都市」などが、日本の代表的な田園都市。そして、大船にも、かつて「田園都市」構想があったという。
なお、キニナル投稿には「鎌倉山/山椒洞(さんしょうどう)」も含まれているが、開発の経緯が違うため今回は「東洋のハリウッド」をめざした大船にスポットをあててみたい。(鎌倉山の開発については過去記事を参照、なお山椒洞は解体済)
「新鎌倉」と呼ばれていた、かもしれない
1887(明治20)年には東海道線が、翌年には横須賀線が開通していた湘南地方。なかでも大船は、別荘地である逗子、葉山、鎌倉と、海軍基地のあった横須賀にもほど近く、東京へも乗り換えなしで1時間程度という立地だった。
明治時代の大船周辺。一面、田畑が広がっている
(出典:独立行政法人農業環境技術研究所/歴史的農業環境閲覧システム)
中産階級向けのニュータウン、「田園都市」構想が計画される条件は十分に整っていた。
1921(大正10)年、銀行家渡辺六郎氏によって大船田園都市株式会社が設立され、土地の買収がはじまる。渡辺氏は芸術に造詣が深い人物で、海外の田園都市も視察していた。大船田園都市を、文化の先端となる町として計画していたようだ。
『文化施設の完備せる理想郷/新鎌倉案内』という地図。1922(大正11)年発行
(所蔵:神奈川県立図書館)
『理想的住宅地新鎌倉鳥瞰図』
大船駅前に広がる約10万坪(横浜スタジアム約12.5個ぶん)を「新鎌倉」と称し、構想上では、水道、公園、児童遊園地、野外音楽堂、野外劇場、クラブハウスおよび運動場、テニスコートなどが建設される予定だった。
1922(大正11)年発行の『新鎌倉案内』(大船田園都市株式会社編)より
同心円から放射状に伸びる街路が印象的な新鎌倉(所蔵:神奈川県立図書館)
グーグルマップに重ねてみると、整備された一部の街路が残っているとわかる
街並みの景観を統一するため住宅は「外観をすべて洋風とすること」をはじめ、高さ制限や建築面積にも取り決めがあった。
だがこの壮大な構想は幻に終わる。1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災後、分譲地は売れず、造成もままならない状態となってしまったのだ。
当時数棟建てられ現存する貴重な洋館は鎌倉市景観重要建築物に指定されている
(個人宅のため非公開)
1925(大正14)年には、第二期分譲地として同心円状の街路を持つはずだった場所は、競馬場として鎌倉郡畜産組合へ貸与するありさまだった。
そして1927(昭和2)年、金融恐慌のあおりで親会社だった東京渡辺銀行が営業停止。翌年大船田園都市株式会社も倒産してしまう。
田園都市構想の名だけ残った眼科の名称