横浜の「古戦場」はどこにある?
ココがキニナル!
横浜は昔、大きな合戦が3つありました。鎌倉時代の鶴ヶ峰合戦。戦国時代の小机城合戦と権現山城合戦です。その歴史と古戦場レポと、コアな情報もあれば。(信(しん)さん)
はまれぽ調査結果!
「鶴ヶ峰の戦い」は1205(元久2)年、「小机の戦い」は1478(文明10)年、「権現山の戦い」は1510(永正7)年に起こった権力争いの戦だった
ライター:橘 アリー
謀略による「鶴ヶ峰の戦い」
関ヶ原の戦いなど有名な合戦があるが、500年以上前の横浜でも大きな戦いがあった。その戦場でどのような戦いがあったのだろうか。戦いの要所を抑えながら見てみよう。
まず「鶴ヶ峰の戦い」の跡地と戦いに至るまでの出来事を追っていく。
「鶴ヶ峰の戦い」は1205(元久2)年の鎌倉時代に、現在の鶴ケ峰で起きた畠山重忠(はたけやま・しげただ)軍と北条軍との戦い。
相鉄線鶴ヶ峰駅から徒歩7分ほどに鶴ケ峰1丁目古戦場跡がある
重忠が北条時政の謀略によって討たれ、重忠軍はここで全滅。重忠が討たれた地には慰霊碑がある。
畠山重忠慰霊碑
では、戦いに至る背景を紐解いていこう。
重忠は、1164(長寛2)年に武蔵の国の武将の父・重能(しげよし)と、衣笠城城主、三浦義明(よしあき)の娘である母の間に生まれ幼少期を現在の埼玉県深谷市で過ごす。
1180(治承4)年、源頼朝が平氏討伐に兵を上げると、父・重能が平家の家人であったため、重忠は平氏方として鎌倉に赴く。由比ガ浜で源氏方の三浦義澄(よしずみ)と戦ったが破れ、雪辱を期すため祖父が城主である衣笠城を攻め、母方の祖父、源氏側の義明を滅す。
横須賀市衣笠町の衣笠城址跡の碑
その後、挙兵した頼朝は武蔵国で重忠軍に遭遇する。
重忠は、前述のように平氏方として頼朝側の義明を衣笠城で滅ぼしたが、京都に居た父・重能より「自分は平家に使えているが、お前は、畠山の先祖が代々仕えていた源氏として戦え」と書かれた密書を受け取っていた。それにより、頼朝に従い、鎌倉へ向かう頼朝軍の先陣を務る。
後も、重忠は頼朝の平家討伐に尽力した。
1199(正治元)年に頼朝が亡くなると、頼朝の妻の北条政子の父・時政が力を伸ばし、重忠は北条氏の権力闘争に巻き込まれる。
鎌倉の源氏山公園の源頼朝像
重忠の嫡男・重保(しげやす)は、源実朝(さねとも)の正室を迎えるために上洛したとき、時政の後妻の牧の方の娘婿、平賀朝雅(ひらが・ともまさ)と酒宴で口論となる。
すると、牧の方は、重忠と重保に謀反の罪を問うよう時政に強く求めた。時政の息子の義時(よしとき)・時房(ときふさ)兄弟が重忠を弁護し慎重な判断をするように諭すが、重保は三浦義村(よしむら)によって由比ガ浜で討たれる。
義村は、重忠とは従妹で、重忠が義明を滅ぼしたことを恨んでおり、それを利用した北条時政の謀略。
現在の由比ガ浜(フリー画像)
重忠は、謀反の意思がないと示すために鎌倉へ向かった。
重忠が菅谷の館(埼玉県)を出発したのは、重保が討たれる3日前。
重忠が二俣川にさしかかったころ、重保が討たれ、義時・時房の北条軍が向かっていると知る。だが、身の潔白のため重忠は、菅谷へ引き返さず、二俣川で北条軍と戦った。そのときの重忠軍は134騎、北条軍は数万騎。
これが「鶴ヶ峰の戦い」。
戦いの地は、現在は静かな川と住宅地
戦いで、重忠軍は全滅し、重忠は矢の名手の愛甲三郎季隆(すえたか:源氏に仕えた武将)が射った矢で打たれた。
後に、義時は重忠の軍勢があまりにも少なく、重忠は謀反という無実の罪をきせられたとして、その死を悼んだそう。
北条氏の権力争いの結果、時政と牧の方は追放、義時が執権役につく。
重忠の死は、北条氏の権力争いにまきこまれた非業の死である。
重忠は、死の直前「我が心正しければこの矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と言い、2本の矢を地面に突き刺した。
竹は生茂り「さかさ矢竹」と言われ、現在は慰霊碑の横に植え替えられている
ほかにも合戦にかかわりのある場所がいくつかある
旭区役所敷地内の「鎧の渡し・首洗い井戸」
武士が鎧を頭に乗せて渡ったとされる場所、また、討たれた重忠の首を洗い清めたとされる井戸である。
近くに重忠の「首塚」がある
重忠と134騎を埋めたと伝えられる六ツ塚
「菊の前」が埋葬されているといわれる駕籠塚(かごづか)
戦いを聞き駕籠でかけつけた、重忠の内屋(身分の高い人の妻)「菊の前」が、この地で重忠の戦死を聞き自害し、駕籠のまま埋葬されたそう。
次は「小机の戦い」。