横浜の「古戦場」はどこにある?
ココがキニナル!
横浜は昔、大きな合戦が3つありました。鎌倉時代の鶴ヶ峰合戦。戦国時代の小机城合戦と権現山城合戦です。その歴史と古戦場レポと、コアな情報もあれば。(信(しん)さん)
はまれぽ調査結果!
「鶴ヶ峰の戦い」は1205(元久2)年、「小机の戦い」は1478(文明10)年、「権現山の戦い」は1510(永正7)年に起こった権力争いの戦だった
ライター:橘 アリー
お家騒動が発端「小机の戦い」
「小机の戦い」は、1478年(文明10)年の戦国時代に、太田道灌(おおた・どうかん)が家督争いにより小机城を攻めて落城させた戦い。
道灌の木像(『横浜の歴史』より)
道灌は、江戸城を築いた戦国時代の武将。
江戸城跡の皇居桜田門(フリー画像)
小机城は、横浜線「小机駅」の北側にあった城。跡地は「小机城址市民の森」で本丸・二の丸・空堀・土塁などがほぼ原型のまま残っている。
「小机城址市民の森」の小机城址の碑
小机城が攻められることになった発端は、1473(文明5)年に、山内上杉家の家宰(かさい:家老)長尾景信(かげのぶ)が亡くなったことから、本来、景信の嫡男の景春(かげはる)が継ぐところを、山内上杉家の主の上杉顕定(あきさだ)は、なぜか景信の弟の忠景(ただかげ)を家宰に任命した。
景春はこれを怨み山内上杉家に背き、敵対する下総古河(しもうさこが:千葉県)の古河城が拠点の一族・古河公方(こがくぼう)の足利成氏(あしかが・しげうじ)に味方するようになる。
道灌は景春と親戚で、景春の実力を知っており、景春が反乱を起こすと関東は大混乱になると考え、主人の上杉定正(さだまさ)に今のうちに討つようにすすめた。
上杉氏に変わり実力者になろうと目論んだ景春は、武蔵武士(武蔵の国、北関東の武士)たちを味方に付けて準備をする。
1476(文明8)年、道灌が駿河国に行っている間に、上杉方の城の五十子城(いらこじょう:埼玉県)を景春が攻めて反乱を起こす。
さらに、小机城の城主矢野兵庫は、道灌の甥が守る川越城(かわごえじょう:埼玉県)を攻めようと出撃したが、合戦で敗退した。
道灌は、景春を追いつめるため、武蔵の国南部を攻めていった。
小机城址の空堀
1478(文明10)年1月、道灌は景春方についていた足利成氏と和解。1月25日、景春方の残党が残る平塚城(港北区新羽)を攻め落としたが、城主の豊島泰経(としま・やすつね)は丸子城(川崎市)に移り抵抗を試みた。
しかし1月27日、道灌が丸子城を攻め落とし、泰経が小机城へ逃げ込んだので、軍勢は小机城下へ殺到。
道灌は、小机城を攻めるため鶴見川を挟み対岸に、亀之甲山(かめのこやま)城を築き拠点とし2月6日から小机城を攻め、4月11日に落城させた。
小机城址の本丸
小机城址は見応えがある
続いて、権現山の戦い。
謀反の戦い「権現山の戦い」
権現山は、現在の神奈川区の幸ヶ谷公園・幸ヶ谷小学校がある丘と、線路を挟んだ場所にある本覚寺の丘とひと続きの山だった。
左が京急線神奈川駅から徒歩5分ほどの幸ヶ谷公園で線路の右奥が本覚寺
「権現山の戦い」は、1510(永正7)年の戦国時代に昔はひと続きだった権現山で起きた戦い。権現山城の別名は神奈河城。権現山城城主が、主君に反旗を翻した戦いである。
権現山城は長享の乱(ちょうきょうのらん:1487〜1505年)のころ、山内上杉氏の当主・上杉顕実(あきざね)が在籍。しかし、長享の乱の後、山内上杉氏が神奈川を去り、代わって扇谷(おおぎがやつ)上杉氏が城を修築して、上田正忠(まさただ)が城主となる。
「権現山の戦い」のとき、高齢の正忠は城にはいたが、嫡男である上田蔵人政盛(くらんどまさもり)が城主を務めていた。
合戦の跡地・幸ヶ谷公園は桜の名所
1510(永正7)年6月に山内上杉顕実が死亡したのを機に、当時、伊豆にいた北条早雲(そううん)は、関東進出を目論み扇谷上杉朝良(ともよし)に戦いを挑んだ。早雲は朝良の家臣であった上田蔵人政盛に働きかけ、朝良から離反させて挙兵させた。
幸ヶ谷公園周辺は、静かな住宅地
政盛の謀反を知った扇谷上杉氏と山内上杉氏は対立していたが共通の敵の早雲を討つべく、7月11日に2万の大軍で権現山城を包囲。
同月の19日まで激戦が繰り返され、上杉氏が勝利し権現山城は落城。
破れた上田氏の消息は不明。後に上田氏の子孫は北条氏康(うじやす)の時代から武蔵国松山城(埼玉県)城主として登場する。
幸ヶ谷公園の「権現山合戦の跡」看板
「権現山の戦い」の様子『神奈川砂子』
激しい攻防の中、権現山城の勇将たちが上杉軍の陣中へ突撃した。その中に「神奈川の住人、間宮の某」と叫んで突撃した武士がいたそう。
突撃した武士は間宮彦四郎と伝えられている『神奈川砂子』
取材を終えて
その昔、多くの敵を相手に挑んでいけば“勇者”と言われたのかも知れないが、戦いは悲しいものである。
—終わり—
参考文献
『横浜の歴史』
『横浜の戦国武士たち』
『横浜文化財調査報告書 神奈川砂子』
ももたろんさん
2017年01月02日 20時06分
瀬谷のあたりにも古戦場跡があるはずです。
深見城跡あたりに、四万坂古戦場跡があります。
このあたりの取材をしていただけたら嬉しいです。
晴天さん
2016年02月19日 12時41分
歴史を知っていると、その場所に行ったとき、よりいっそう楽しめそうですね!