横浜のディープな街「福富町」の歴史とは?
ココがキニナル!
ディープな韓国料理屋と風俗店の立ち並ぶ中区福富町が気になります。この町の歴史を調べてください。(ときさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
米国から返還後、歓楽街へと成長するも、バブル崩壊を境に外国人経営の店が乱立。福富町の歴史には日本経済の流れが色濃く反映されていた。
ライター:篠原 章公
横浜でも有数の風俗・歓楽街へと成長
文献『横浜・中区史』によれば、1962(昭和37)年から1965(昭和40)年にかけて弥生、曙、末吉町に多く点在するようになったトルコ風呂が、1966(昭和41)年になって福富町西通を中心につぎつぎと建設されていったとある。
これはトルコ風呂の営業禁止除外区域に指定されたことが原因となっており、これによってかつての伊勢佐木町の裏通りとしての庶民娯楽の町のイメージが、すっかり変わったのだという。福富町が現在も持つ歓楽街としての顔はこの頃から急速に形成されていったようだ。
日本、そして横浜の発展とともにトルコ風呂やキャバレーなどが立ち並び、賑わいを見せていった福富町。前出『横浜・中区史』に、当時の繁栄を表す記述があるので引用する。
「特殊浴場のトルコ風呂が多く、福富町仲通を除き五十八年現在二四軒が営業の認可を得ている。風俗営業のキャバレー九店やバーも三八店がここに集中し、区内はもとより市内でも最も多い所である。トルコ風呂が多いのは西通で、バーやキャバレーは仲通、レストランなど普通商店は東通と大まかに分けることが出来る。夜ともなればネオンの輝きに彩られて、ことのほか派手やかである。(中略)都橋からの西通の夜景は、五色のネオンが川面に映えて美しい」
当時の状況を偲ばせる現在の西通の夜景(都橋から)
また当時を知る老舗料理店経営のHさん(男性・60代)にも話を聞くことができた。
「そりゃあもう今じゃ考えられないぐらいの繁盛ぶりでしたよ。うちなんかはもうひっきりなしにお客さんが来てね。正直言って、もうこれ以上お客さんが来ないでほしいって思うぐらいの忙しさ。正月休みなんか、ふと気がつくと自分の手が思い通りに動かなかったりしましたよ」
―どのようなお店を中心に盛り上がっていたのですか?
「『グランドキャバレー』って言って、今はもうないけど女の子が100人ぐらいいる様なところに有名なバンドや芸人、歌の歌える俳優なんかが来てね。鶴田浩二も来たし、ピンキーとキラーズも来たし・・・。だいたいそういう店から客がはけてきた夜の11時ぐらいからが稼ぎ時でした。それが高度経済成長の時代の話」
雑誌等でも度々取り上げられた(週刊サンケイ1974年3月15日号)
景気の流れとともに姿を変えていく福富町
さらにバブル崩壊後の時期を中心に、仲通に店を構えて40年の人気洋食店「イタリーノ」のご主人に話を伺った。
「昔は日本人がやってる店ばかりだったけどね。ここに店出した頃なんかは寿司屋にスナック…今とは全然違ったよ。みんなでお金出し合って有名人を呼んだりしてね。うちも昔は深夜の2時ぐらいまで店開けてたんだ。客がやってくれって言うもんだからね」
―現在の様な街になったのはいつごろからなのでしょうか?
「やっぱり日本人が商売できなくなってからじゃないかな。何年か前は韓国の店が今よりたくさんあったよ。最近はまた減ってきたみたいだけど」
気さくに話をしてくれた「イタリーノ」のご主人
―同じ商店街でご商売をされているという事で、付き合いや交流などはあるのでしょうか。
「(外国人との)交流?例えば、通りの街灯の電気代なんかはみんなで出し合ってるんだけど、それも払わない店が多いからね。3000円ぐらいなのに。自分の所は勝手にやりますからって感じじゃないのかね。よく知らないけど」
―それはさみしいというか・・・どうにかならないものなのでしょうか。
「うーん・・・まあ今は日本人も元気がないからね。伊勢佐木もチェーンの店ばっかりだしね。うちの店もあと何年続くか(苦笑)」
取材を終えて店を出る際に、ご主人が「おつかれさん」と声を掛けてくれたのが印象的だった。
時間を変え、夜に再訪
日が暮れ、この街が最も活気づく時間帯に合わせて再び訪れることに。
あたりを見回すとそこは昼間の様子とは打って変わって、輝くネオンと車の群れ。
福富町は夜の顔に変わっていた。
派手なネオンを輝かせて営業する風俗店
外国人とのトラブルもないわけではないようだ
「オニーサン、オニーサン」と声をかけてくるアジア系の女性や、韓国料理店から出てくる外国人グループ、黒服に身を包んだ風俗店の店員、水商売風の女性を連れて歩く男性などが闊歩するこの街は、決してイメージが良いとは言えないかもしれない。
しかし、そんな中でも営業を続ける日本人経営の飲食店や商店もまだまだ残っており、様々な人種や文化、そして欲望が混在したこの街ならではの魅力が、福富町には確かに存在していた。
昼間は閑散としていた通りも車でいっぱいに
取材を終えて
聞き込みや文献から戦後の福富町の歴史を探ってみると、そこには敗戦後急速に発展を遂げ、高度経済成長の時代を経てバブル崩壊、そして閉塞感漂う現在まで、日本経済の流れと非常にリンクした街の姿があった。
街は時代の流れや、そこで生活する人間によって常に姿を変えるものだ。10年後、これまで目まぐるしく姿を変えてきた福富町がどのような街になっているのか想像もつかないが、今回の調査を通して、個人的にはまた訪れてみたいと思わせてくれる街であった。
―終わり―
みーやさん
2016年11月12日 20時58分
2014年11月1日03時00分の朝日新聞ネット記事一部抜粋(神奈川)めざせ新大久保 横浜・福富町をコリアタウンに横浜・伊勢佐木町と野毛の間に位置する福富町。昔は横浜を代表する繁華街だったこの街に再び観光客を呼び込もうと、地域に暮らす韓国人と地元町内会による「コリアタウン化構想」が動き出した。目指すは「韓流ブーム」に乗ってにぎわいを生んだ東京・新大久保だ。上記のような記事があったのでどんな町なのか気になりここを見ました。正直なところ今まで縁の無かった地域ですが、女の私は近づかないほうが良さそう。風俗だらけや、外国人に乗っ取られ気味な地域っていうのは正直なところ好ましく思えないです。横浜のイメージが悪くなりそう。朝鮮系の人や政府の言動から親日的な印象を受けたことはほとんど無いし、心配。少しは親日的な人もいるのかな? 良き市民であってほしい。
TOMIさん
2016年07月31日 11時38分
曾祖父の代(明治中頃)から福富町に住んで100年近くなります。空襲で焼かれて米軍に接収され、返還後にまた家を建てました。私が子供の頃は既に歓楽街でしたが、日本人経営の店が殆どでした。今は韓国、中国人経営の店が多く、ガイドブックなどでコリアンタウンなどと紹介されているのを見ると正直腹立たしく、止めてくれと言いたいです。日本人が作った日本人が暮らす町ですよ!
中山さん
2015年11月04日 11時11分
福富町、数年前 商店街を歩いていたら、(昼夜関係なし)中国人女性が、数名いて片言でマッサージサービスあるよと声をかけてきたが?警察の取り締まりで消滅?だが最近中国人マッサージ店増えたから女の子たちは店に移ったのでは?