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横浜の古道を歩く 東海道その2 ―神奈川宿編―

横浜の古道を歩く 東海道その2 ―神奈川宿編―

ココがキニナル!

市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜の古道を一筋一筋丁寧に歩くことで、ピンスポットのガイドでは得られない「旅する感覚」を再現。まずは王道の東海道。その第2編の神奈川宿周辺には、幕末・開港期の痕跡が数多く残っている。

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ライター:結城靖博


近世の大動脈・旧東海道を横浜市内の端から端までたどる旅。


© OpenStreetMap contributors)


第2回目の今回は、第一京浜(国道15号線)の京浜子安駅入口交差点から南へ下る。

この先はかつて神奈川宿だったところ。
宿場付近は中世から陸海交通の要衝地で、物資の集散拠点だった。そしてそこへ至る道、いや至ってからも、街道の左側には海岸線が続いていた。


初代広重筆『神奈川台石崎楼上十五景一望之図』(横浜市中央図書館所蔵)





幕末維新の空気が徐々に濃厚になるエリアへ





スタート後しばらくは、第一京浜をひたすらたどる。


潮の香ではなく車の排気ガスが漂う幹線道路


だが5分ほど歩くと、ちょっと素敵な名前の交差点に遭遇する。


その名も浦島町(うらしまちょう)


一帯は交差点周辺が浦島町、西側に亀住町(かめずみちょう)、浦島丘(うらしまおか)と、浦島太郎伝説につながる町名が広がる。
この交差点を右に折れて、またすぐ左に曲がった先に公園がある。


そこは神奈川通東(かながわどおりひがし)公園


ごく普通の公園だが、実は旧東海道の重要なポイントだ。


公園入り口の解説板


昔ここには長延寺(ちょうえんじ)という寺があり、門前は神奈川宿の江戸方見附(えどがたみつけ=江戸側からの宿場の入り口)だった。
街道の両脇には高さ2.5メートルの土居(どい=土製の防壁)が築かれ、その上に75cmの竹矢来(たけやらい=竹を粗く交差させた囲い)を巡らせていたそうだ。


解説板の土居の絵図


また幕末開港期には、横浜村の開港場(かいこうば)が整うまでの間、神奈川宿の多くの寺院に外国領事館が置かれたが、長延寺にはオランダ領事館があてられていた。


それを伝える碑が公園内に建つ


ところで・・・


公園は京急・神奈川新町駅と隣接するのだが



線路をまたぐ歩道橋の上から北西側を望むと、小高い丘が見える


この丘陵地一帯の町名が「浦島丘」だ。今は密集する住宅地だが、近世までこの丘には浦島太郎伝説ゆかりの観福寿寺(かんぷくじゅじ)、別名「浦島寺」と呼ばれた古刹があった。

境内には太郎が乙姫様から授かった観音像を祀るお堂や太郎父子の墓塔が建っていた。また、玉手箱や釣り竿さえ所蔵すると言い伝えられ、東海道の旅人にとって名所の一つだった。


国周筆『東海道一眼千里 神奈川浦島太郎』(横浜市中央図書館所蔵)


残念ながら観福寿寺は幕末に火災で焼失し、廃絶。そして観音像や父子墓塔などの遺物は、慶運寺(けいうんじ)をはじめ近在の寺院に移され今日に至る。

公園をあとにして第一京浜に戻り、また横浜方面に向かって進むと、5、6分で東神奈川二丁目の交差点に到着する。


東神奈川二丁目交差点付近


ここを右折してすぐのところに、能満寺(のうまんじ)という寺院がある。


山門の手前右手に自然石の碑が



1775(安永4)年建立の松尾芭蕉の句碑だ


「父母の しきりにこひし 雉子の聲」。浦島太郎伝説を踏まえて詠んだともとれる句だ。

東神奈川二丁目交差点に戻ってさらに数分南下すると、首都高が第一京浜と重なる。


ここは神奈川二丁目交差点。交通量がことさら多い



交差点を越えると、すぐ右手に脇道がある


宿場には必ず、旅人の荷物運搬・通信・宿泊手配など多岐にわたる業務を担う重要施設「問屋場(といやば)」があった。
神奈川宿の場合は、この先の本陣(ほんじん=大名などの宿泊所)から300メートルほど江戸寄りにあったという。するとだいたいこの辺りなのだが、とくにそれを示すものはない。

ここでまた脇道を右に入ると・・・


すぐ右角に神社がある



神奈川郷の総鎮守・熊野神社だ


この古社にも興味深いエピソードがいくつかある。


鳥居脇の左右には嘉永年間(1850年前後)に造られた狛犬が置かれている


右側の狛犬の足元には子犬がいてその姿も珍しいが、実はこの狛犬は戦後進駐軍によってなぜか土中に埋められ、その後地元の有志の手で掘り起こされたそうだ。


また、社殿右横にある白壁の神輿蔵の裏手にイチョウの古木が見える



このイチョウは別名「火防(ひぶせ)のイチョウ」と呼ばれる


横浜大空襲など二度の大火に遭いながら奇跡的に生き返ったからだという。樹齢400年。パックリ割れた幹が痛々しいが、横浜市から名木古木に指定されている。

京浜子安駅入口交差点から熊野神社へ続く脇道までの、東海道の距離は約1.5km。まっすぐ歩けば20分足らずの行程だ。


© OpenStreetMap contributors)




伝説の世界へちょっと寄り道





第一京浜に戻ってふたたび東海道を南下すると・・・


また数分で神奈川警察署前交差点にたどり着く



ここは東海道と別の古道との分岐点にあたる


取材の基礎資料として利用した横浜市教育委員会発行の古道地図帳『横浜の古道』によれば、警察署の角を右に曲がった道が、八王子に通じる神奈川道(かながわみち)の起点だ。


分岐路に入ってみると100メートルほどで、やや太い道に突き当たる


右折すると「滝の川」に沿って神奈川道がさらに続くのだが、


すぐまた米穀店の前の脇道を右に曲がると



左手に成仏寺(じょうぶつじ)が現れる


ここは開港期に、ローマ字の考案で有名な宣教医ヘボン博士をはじめ、外国人宣教師たちが仮住まいをしたところだ。下は当時の成仏寺の写真。攘夷派浪士から外国人を守るためだろう、門前に帯刀した見張り番が立っている。


『横浜史料 開港七十年記念』(横浜市中央図書館所蔵)



また、この境内には不思議な石がある



波のような形をしていることから「浪石(なみいし)」の名がつく


石の表面が満潮になると潤い引潮になると乾くので、なぜるだけで潮の時刻がわかるとか。
一方、竜宮城から帰ってきた太郎が両親に思いを馳せ、この石を涙で濡らしたという言い伝えが残り、別名「浦島太郎の涙石」とも呼ばれる。

成仏寺の先をもう少し進むと、右手に宿場時代を偲ぶ貴重な遺構が建つ。


神奈川宿の高札場(こうさつば)だ


高札場とは、幕府や領主が発する法度(はっと)や掟書(おきてがき)を木札に書き掲示した場所で、各宿場の中心地に据えられていた。

そこは神奈川地区センターの前。もともと宿場中心地「滝の橋」のたもとにあったものを、ここに復元したそうだ。

滝の川沿いの旧神奈川道に戻ると、川向うの正面に寺院が見えた。


ここは浄龍寺(じょうりゅうじ)


この寺にも開港期、イギリス領事館が置かれていたという。


左手に浄龍寺を見て川沿いをさらに北上し、京浜急行線の高架橋をくぐると



右手にまたお寺が現れる



門前に近づくと「慶運寺」とある


そう、ここが前述した観福寿寺の浦島太郎ゆかりの遺物を多く引き継ぐ、現在の「浦島寺」だ。

門前には亀の甲羅の上に建つ「浦島観世音浦島寺」の碑がある。観福寿寺から移された遺物の一つだ。また、その後ろに「フランス領事館跡」の碑もある。この寺もやはり開港期に外国領事館として使われていたのだ。


境内に入ると立派な本堂が待ち構え



その左側に浦島観音堂があった


観音堂は扉中央の穴から中を覗くことができる。


堂内はこんな感じだ


中央に鎮座する仏像が、太郎が玉手箱と一緒に持ち帰ったと伝えられる観音像。やはり亀の上に乗っている。


観音堂の左脇には浦島父子の墓塔もある


境内には丁寧な解説板もあり、伝説の世界にたっぷり浸れる。おっと、いけない。竜宮城に連れて行かれる前に、そろそろ東海道に戻らなければ。

なお旧神奈川道は、慶運寺のすぐ先で第二京浜(国道1号線)の二谷(ふたつや)交差点に行き着き、交差点を越えるとさらに稲毛道(いなげみち)に分岐する。いつかぜひ、古道シリーズで取り上げてみたいものだ。

下の地図の赤いラインが熊野神社から先に進んだ東海道。その距離わずか250メートル弱。そして、紫のラインが寄り道コースだ。


© OpenStreetMap contributors)




神奈川宿中心部でまた寄り道にハマる





神奈川警察署前交差点に戻って東海道の南下を再開すると、わずか100メートルあまりで滝の橋交差点に至る。


滝の橋交差点付近


この橋の周辺こそ本陣や高札場がある宿場の中心地だったのだが、今、その面影は薄い。


わずかに残るのは橋近くの滝の川沿いにある本陣の史跡だ



そこには本陣についての解説板が置かれている


神奈川宿の本陣は滝の橋をはさんで、江戸寄りに神奈川町の石井本陣、上方寄りに青木町の鈴木本陣が向かい合っていた。土地の名家が担ったそれぞれの本陣がどれほどのスケールだったか、絵図は残るものの現場で想像するのはちょっと難しい。

同じことが言える場所が、近辺にもう1ヶ所ある。そこを見るために、またちょっと寄り道したい。


滝の橋交差点の歩道から南東側を望む


この先は中央卸売市場などがある臨海部だ。しかし第一京浜を渡って通りの向こうに足を踏み入れると、一帯は下町風情漂う住宅地だった。


民家が目立つ路地を進んでいくと



その奥にポツンと佇む史跡を発見



ここは神奈川台場跡だ


神奈川台場は開港直後の1860(万延元)年、海防のために幕府が造った砲台である。設計者は勝海舟。石は真鶴から、土は近くの権現山を削って運び入れ、横幅約240メートル・奥行き160メートルの巨大な台場を、わずか1年足らずの突貫工事で築いた。


史跡碑そばの解説板に描かれた図


「死んでしまおか お台場行こか 死ぬのがましかえ 土かつぎ」と俗謡にうたわれるほど困難をきわめた作業だったというが、今その姿は石垣の一部をわずかに残すだけだ。


しかもそこは民家のすぐ裏手にあたる



ただ北側に隣接する神奈川台場公園にも石垣の一部は残る


それにしても、開港当時を偲ぶほぼ唯一の遺構にしては、少々寂しい感がある。

なお、砲台には14門の大砲が置かれていたが、幸いにも1899(明治32)年の台場廃止まで礼砲としてしか使われなかった。もし実戦に使われていたら、歴史が変わっていたかもしれない。

滝の橋に戻ると、もう1ヶ所寄り道してみた。そこはふたたび第一京浜を渡って、本陣跡がある滝の川沿いの道をすぐ左折したところにある。


ちょっとお寺らしくない建物だが、曹洞宗の宗興寺(そうこうじ)だ


ここは開港期に、ヘボン博士が無料で多くの患者を診察した施療所を開設したところだ。


境内にはその記念碑もある


そしてもう一つ、この寺には東海道ゆかりの地として見ておきたいものがある。


それは敷地外、正門右手の側道に佇む「神奈川の大井戸」だ


この井戸から汲み上げた水は将軍や明治天皇も愛飲した名水で、東海道の旅人の間では、寺は「大井戸寺」の名で知られていた。ヘボン博士もこの井戸の水を治療に使ったという。

神奈川警察署前交差点から滝の橋交差点までは約150メートル。また本道より寄り道のほうが長くなってしまった。寄り道ざんまいはこのぐらいにして、東海道を先へ進もう。


© OpenStreetMap contributors)




宿場内の東海道をずんずん進む





滝の橋交差点から第一京浜を南下すると、まもなく右手に可愛らしい壁画が現れる。


幸ケ谷(こうがや)小学校の外壁だ



小学校を過ぎると、すぐ右手に宮前商店街の看板アーチが見える


第一京浜沿いの道中はここでようやく終わりを告げ、旧東海道は宮前商店街の中へ続く。

宮前商店街については、筆者の過去記事で宿場の歴史とも絡めて詳述しているので、本稿では少し急ぎ足で見ていこう。


商店街に入るとやがて右手に鳥居を発見



源頼朝創建の洲崎大神(すさきだいじん)。青木町(あおきちょう)の総鎮守だ


かつて境内には巨大な檍(あわき)の御神木があり、それが同地の町名の由来になったという。


境内から鳥居の外を望む


前を横切る東海道のすぐ向こうは海で、船着き場があった。自動販売機が置かれた角の居酒屋の名は「いり船」。おそらく歴史にちなんだのだろう。


神社のそばには「亀の甲(かめのこ)せんべい」を売る店があった


参勤交代の大名も買い求めた銘菓だったが、今はもうそれを売る店はない。

洲崎大神の先をさらに西へ進むと、右手にまた開港期に縁のある寺院が並ぶ。


イギリス士官の宿舎にあてられた普門寺(ふもんじ)と



フランス公使館として使われていた甚行寺(じんぎょうじ)だ



甚行寺の少し先で商店街は交通量の多い通りに突き当たる


第二京浜(国道1号線)だ。大通りに出て左を向くと、さっきまで歩いてきた第一京浜(国道15号線)の終点、青木通交差点が見える。


そして右を向くと青木橋だ


この日本初の鉄道跨線橋も筆者の過去記事で紹介しているが、青木橋は明治になってから鉄道敷設のために切り通した場所に架けられた橋だ。
それ以前の旧東海道は、上の写真に矢印で示したビルの谷間へ向かって、宮前商店街側からまっすぐ続いていた。


図で表せば、こう(© OpenStreetMap contributors)


そして、点線で描いたまぼろしの道の先、台町(だいまち)の坂こそ、神奈川宿が小田原までの街道一の宿場町として栄えた理由と関連する。
だがそれを探る前に、東海道を語るうえで欠かせない、橋の右手の本覚寺へ立ち寄ろう。


青木橋のたもとから望む本覚寺


前回の「東海道・縄手編」で述べた通り、生麦事件で島津藩の供侍の無礼打ちに遭ったイギリス人2名が逃げ込み、ヘボン博士の治療で一命をとりとめた本覚寺。

彼らが本覚寺に駆け込んだ理由は、そこにアメリカ領事館があったからだが、イギリス人なのに手前にある普門寺のイギリス士官宿舎をパスしてここまで逃げてきたのは不思議だ。

開港当初の本覚寺が、それだけ外国人にとって重要な拠点だったということだろうか。


山門脇にはアメリカ領事館跡の碑が建つ


この開港期の逸話は本覚寺道路擁壁に関する筆者過去記事に詳しいので、本稿ではそこで触れなかったことについて紹介しよう。


今回は本堂左脇の矢印の先に注目


1725(享保10)年のある夜、同寺第10世住職・大定梁国(だいじょうりょうこく)和尚の枕辺にお地蔵様が立たれ、「霊薬を授けよう」と告げられた。和尚が地蔵菩薩の教えの通り薬を作ると万人の病たちどころに癒え、宿場内外の評判を呼ぶ。薬名は「黒薬(くろぐすり)」。東海道を通る旅人が、こぞってこの薬を本覚寺で買い求めたという。

梁国和尚は、夢枕に立ったお地蔵様を忘れないうちに石に刻んだ。


その石仏が今も境内に残されているのだ


滝の橋交差点から台町の入り口までの距離は約650メートル。10分弱の行程である。


© OpenStreetMap contributors)




神奈川宿随一の人気スポットだった坂を上る





さて、いよいよ東海道中神奈川宿のイチオシ・スポットだった台町の坂へ足を踏み入れよう。

台町といえば、歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の『東海道五拾三次』をはじめ神奈川宿を描く浮世絵にたびたび取り上げられた人気スポットだ。


広重筆『東海道五拾三次之内 神奈川台之景』(横浜市中央図書館所蔵)


人気の理由は広重の絵からもわかる通り、この坂が神奈川の内海「袖ケ浦(そでがうら)」を一望できる景勝地だったから。また、そのため街道沿いにはたくさんの茶屋が軒を連ね、旅人たちにとっての絶好の休憩地だったのだ。


広重筆『五十三次 神奈川』(横浜市中央図書館所蔵)


上の浮世絵では女性が茶屋の2階から海を望んでいる。船や館の様子から、幕末と見られる。おそらく、当時庶民にとって好奇の目の対象だった開港場を眺めているのだろう。

下の写真は、そんな台町の現在の街道筋だ。


台町の坂は右側の細い道


左側の通りは、青木橋交差点で第二京浜(国道1号線)に変わる環状1号線。線路沿いを一日中絶え間なく車が行き交う。対照的に、台町の旧東海道は通る車もまばらだ。


通りに入ってすぐ、まだ平坦な道が続く右手に赤い鳥居が現れた



大綱金刀比羅(おおつなことひら)神社だ


宮前商店街の洲崎大神同様、かつて神社の前は海で、船乗りたちに崇められていた。また、鳥居の前の街道の両脇には、江戸から七つ目の一里塚(街道の里程目標のために一里ごとに置かれた塚)があったという。


神社を過ぎてしばらくすると緩やかな、しかし長い坂が始まる


坂の途中はかつての茶屋に代わって、マンションが目立つ。


その狭間に異彩を放つ建物がポツンと一軒


坂の途中の左手に建つここは、1863(文久3)年創業の料亭「田中家」だ。

広重『神奈川台之景』の中にも前身の茶屋「さくらや」として描かれ、幕末の志士や明治の文豪など多くの著名人が訪れ、坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬の死後仲居として勤めていた等々、エピソードに尽きない老舗店である。


さらに坂を上ると徐々に勾配がなくなり、右手に史跡が現れる



ここは神奈川台関門跡


関門とは、前回の「東海道・縄手道編」で鶴見川橋のたもとにもあったが、要は幕末期、居留外国人の命を狙う攘夷派浪士を取り締まるためにできた警護施設だ。


実際の当時の神奈川台関門(横浜市中央図書館所蔵)


生麦事件が起きた1862(文久2)年、すでに関門があった。事件直後、島津久光一行がここを通過すると、門は直ちに固く閉められたという。逆襲を恐れた一行が宿泊予定の神奈川宿を避けて保土ケ谷宿まで向かったのは、ここに関門があったからかもしれない。


関門跡を過ぎてしばらくすると、坂はなだらかに下り始め



やがて陸橋・上台橋(かみだいばし)に至る



橋の下は横浜駅西口へ通じる幹線道路だ


関門付近を境に、かつて東側の上り坂を東台、西側の下り坂を西台と呼んでいたそうだが、西台を下った江戸時代の旅人がこの現代の光景を見たら、絶句することだろう。


上台橋の先をさらに下ると、道は二又に分かれる


左へ曲がるとすぐ環状1号線に突き当たる。首都高の西口ランプ入口交差点だ。一方、右方向はさらに旧道っぽい細道が続くのだが、旧東海道はここから左に折れて、しばらく環状1号線上を進むことになる。


二又の角にそれを示す案内標柱があった


この付近には、神奈川宿の上方見附(かみがたみつけ=上方側からの宿場の入り口)があったという。つまり、宿場の終点にたどり着いたわけだ。

切りのいいこの辺りで、本稿は閉じることにしよう。

台町の入り口から西口ランプ入口交差点までは約1km弱。徒歩十数分の距離だ。


© OpenStreetMap contributors)


そして、今回歩いた京急子安駅入口交差点から西口ランプ入口交差点までの旧東海道全行程は以下の通り。


© OpenStreetMap contributors)


本道はトータル約3.5km。ただ歩くだけなら1時間もかからないかもしれないが、寄り道も含めればたっぷり一日散策を楽しめるコースだ。



取材を終えて





今回は神奈川宿を縦断する旧東海道の旅だった。見てきた通り現在そこは、かつてひたすら海沿いの街道だったとはとても思えない景観だ。
とはいえ街道筋には、今なお多くの神社仏閣が存在する。点在するそれらのパワースポットのような空間が、道をたどる現在の私たちに、いにしえの空気を伝えてくれる。

次回は保土ケ谷宿へ入る。そこもまたパワースポット満載のエリアだ。どうぞ、ご期待のほどを。


―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
※感染症対策のため、開館時間を変更している可能性があります。詳しくは公式HPをご確認ください。

参考資料

『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 神奈川の宿場を歩く』NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会編著、神奈川新聞発行(2008年9月刊)
『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会編集・発行(1976年7月刊)
『近郊散策 江戸名所図会を歩く』川田壽著、東京堂出版発行(1997年7月刊)
『私たちの横浜・よこはまの歴史(第2版)』横浜市教育委員会発行(2003年4月刊)

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  • はまれぽさんらしい記事で面白かったです。何か所かは訪れたことがありますが、古道というテーマでまとめて見ると点が線になってより興味深くなりました。

  • よこはまうまれです。続編ありがとうございます!いやいや神奈川宿だけでお腹いっぱいですね。神奈川区生まれなので小学校の頃に東海道の歴史は学びましたが、改めてゆっくり歩いてじっくり散策してみたいです。この分だと保土ヶ谷宿も盛沢山になりそうですね。

  • おりょうが働いてた料亭をみずしてなんとする

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