関東大震災で焼失した山下町の「グランド・ホテル」の栄華を教えて!
ココがキニナル!
名門・ホテルニューグランドは「ニュー」とつくので「旧」があるはず。確かに横浜グランドホテルがあったようですが、栄華について知りたい(katsuya30jpさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
関東大震災で焼失するまで、日本屈指の豪華さを誇ったグランド・ホテル。開港期の多くの重要人物がかかわり、日本初のカクテル「バンブー」生誕の場所
ライター:ほしば あずみ
国内最大の高級ホテル
1890(明治23)年には、フランス領事館や指路教会会堂を手がけたフランス人建築家サルダの設計で隣接地に新館がオープン。支配人にサンフランシスコでホテルマンを務めていたドイツ人エピンゲルが就任。
彼は横浜4大カクテルの「バンブー」や「ミリオンダラー」を生み、横浜から世界の港へ広めたことで知られている。
新館。1890(明治23)年当時客室は新・旧あわせ100室を越えた(横浜市中央図書館所蔵 以下同)
エピンゲルはグランド・ホテルを「リッツ・ホテル」や「カールトン・ホテル」のような世界に通用する一流ホテルにする事を目指して、改修や増築に取り組む。同時期、東京では「帝国ホテル」が開業を迎えていた。
新館は海を見渡せる60メートルほどのベランダ、300人収容の大食堂、読書室、社交室、ビリヤード室、バーなどが備えられ冷房も完備していたという。
増築を重ねたホテルは廊下が迷路のように入り組み、似たような広間があちこちにあったため、宿泊客は部屋と正面玄関の行き来もボーイに案内させないと迷子になってしまったそうだ。
増築を重ねたホテルの客室は最終的に360余りに及んだという
1880(明治13)年に宿泊したイギリス人デザイナー、クリストファー・ドレッサーは「パリのグランド・ホテルに滞在しているような錯覚がした」と述べている。
また、石造りの堅牢な建物だと思っていたのに、内部は壁の表面に薄い石版を貼った木造だったので、壁に釘を打って吊るしてあることに驚いたとも記している。
谷戸橋側から見たグランド・ホテル
また、1893(明治26)年に滞在したオーストリア・ハンガリー帝国の教育総監ヨゼフ・コジェンスキーは、部屋に落ち着くや否や中国人や日本人の行商が現れたこと、その後に、彫り師がやってきてお客の体のどの場所にも痛みなしに1人約2円(現在のおよそ4万円相当)で入れ墨したことなどを記している。
1868(明治元)年に政府が彫り物を禁止したため、入れ墨は外国人にしか許されなかった。客の多くが、日本に来た記念の珍しい芸術として、入れ墨をいれたという。
テーブルには美術工芸品の美しいチラシやパンフレットが置かれ、時刻表、地図といった旅行案内もあった。日本語の通訳やガイドもいて、至れり尽くせりだった様子がうかがえる。
このころの1泊料金は食事付きで4円(現在の8万円相当)。東京の帝国ホテルと並ぶ国内最高水準だった。ちなみに、箱根の湯治客向けの宿は食事付きで40銭(現在の8000円相当)だった。
伝説の焼失
日本最大の豪華ホテルだったグランド・ホテルは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により崩壊、火災で灰燼(かいじん)に帰した。
震災の様子も絵葉書になった
旧館の面影がかろうじて残る
当時の日本には火災保険はあったが、まだ地震保険という制度はなかった。地震国では事業として成立しがたかったのだ。グランド・ホテルは幸い地震に備えてロンドンの保険会社と契約しており、結果、未曾有の災害で保険金を手に入れることができた。
だが壊滅的な被害にホテルは再建をあきらめ、50年の歴史に幕を下ろした。
グランド・ホテルの惨状。跡形もない(横浜市中央図書館「関東大震災を調べる」より)
同上。旧居留地で地震保険に加入していたのは他にユナイテッド・クラブだけだった。
取材を終えて
関東大震災後、復興案件として横浜市がただちに外国人ホテル建設を取り上げ、竣工した建物が「ホテルニューグランド」と名付けられたのは冒頭に述べたとおりだ。
横浜の地に再びグランド・ホテルのような一流ホテルを建てる事が、復興を掲げる人々の心の拠り所となったのは、在りし日のグランド・ホテルが横浜を象徴する建物であり、人々の誇りだったからであろう。
―終わり―
ひこひこさん
2018年09月02日 13時25分
私の母方の祖父は、グランドホテルに明治末年から震災まで勤めておりました。何故、生存していたのかは、震災直前にリューマチ(腰痛?)の養生をするために、甲府の温泉地に療養に行ったそうです。そして、震災に遭わずに難を逃れました。横浜に戻る時は徒歩で帰路に着きました。幸いに家族全員無事でした。その後、震災跡地に出来たテントホテルから、ホテル・ニューグランドへと、亡くなる昭和9年まで勤めました。昭和5年に英国のグロスター公が来日して、帰路に着く前日のホテルでの晩餐会や宿泊時は接待係として、公の側についていました。
ひこひこさん
2018年09月02日 13時16分
ホテルの名称に震災から、横浜は不死鳥の如く復興する意味のフェニックスホテルもあったようですが、聞き慣れ親しんだグランドホテルにニューを冠した名称に落ち着いたようです。
夏兒さん
2014年11月14日 12時06分
宿泊客が多数なくなったはず。圧死と思っていましたが、避難経路のわかりにくさのせいもあったか知れませんね。ホテル自体のランクと規模の割に、現代からみるとツッコミどころが満載なような。