昭和30年ごろ、六角橋にロバが屋台を引いてやって来る「ロバのパン屋さん」がいたってホント?
ココがキニナル!
昭和30年ごろ、六角橋にはロバが屋台を引いているパン屋さんがいて子供たちに大人気だったそう。どこからパンを売りにきて、いつごろまできていたの?(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「ロバのパン屋さん」は山下町の「星野商店」が昭和3年ごろはじめ、昭和30年代後半まで六角橋に来ていた可能性が高い
ライター:橘 アリー
山下町のパン屋さんが「ロバのパン屋さん」をやっていた!?
「横浜総合パン協同組合」によると、「ビタミンパン」のチェーン店であるかはわからないが、山下町にあった「星野製パン」というパン屋さんが「ロバのパン屋さん」をやっていたとのこと。
1977(昭和52)年発行、横浜市総合パン協同組合25周年記念誌によると、「星野製パン」の正式名称は、「星野商店」。
25周年記念誌に出された広告の様子
残念ながら同店は、昭和50代後半に廃業、現在、跡地はパン屋さんとは関係のないビルになっている。
1959(昭和34)年当時の地図には名前が載っている
さらに詳しく調べてみると、1991(平成3)年に横浜市技能文化会館で行われた「横浜とパン」という展示の資料で「星野商店」についての記録を発見。
「横浜とパン」の展示の時の資料
この展示にかかわった、パンを焼く窯などを製造販売している神奈川区の櫛澤(くしざわ)電機製作所さんにお話を伺った。
1935(昭和10)年ごろだった!?
お話を聞かせて下さったのは、代表取締役の澤畠光弘(さわはたみつひろ)さん。
快くお話を聞かせてくださった澤畠さん
澤畠さんによると「星野商店」の「ロバのパン屋さん」の営業は1935(昭和10)年ごろが盛んだったのではないか、とのこと。実際に見たことはないらしい。
「横浜とパン」の展示資料の中の「ロバのパン屋さん」のページ
1950(昭和25)年の神奈川県パン協同組合の名簿
そして、「星野商店」のほかには、横須賀の「たからや」というパン屋さんも1935(昭和10)年ごろに「ロバのパン屋さん」をやっていて、「たからや」は現在も営業しているとのこと。
横須賀の「たからや」が六角橋まで来ていたかどうか確かめてみよう、そう思い電話をかけてみると、現在のご主人のお父様が、1935(昭和10)年ごろ、「星野商店」で「ロバのパン屋さん」をやっていた、とわかった。
詳しいお話を伺うために調査対象エリア外だが横須賀へ。
横浜が「ロバのパン屋さん」の発祥の地!?
「たからや」さんの最寄り駅は、JR衣笠駅
駅から歩くこと約15分。
「たからや」さんに到着
お店の前の人形の顔がちょっと怖い・・・
でも、ご主人は優しい人だった。
ご主人の高橋光夫さん
1934(昭和9)年、屋台に乗っているのが、お父様の高橋辰男さん
現在、同店の正式な屋号は「池上たからや(いけがみたからや)」
。「ロバのパン屋さん」について伺うと、戦前の横須賀の風物詩だった時の新聞記事を見せてくださりながら話をしてくださった。
記事では、お父様の辰男さんがこう語る。
辰男さんは、栃木県の出身。1928(昭和3)~1929(昭和4)年ごろ、14歳で同郷人が経営していた横浜山下町の星野商店へ勤務。そのころは、店には従業員が50人くらいおり、移動販売用の場所も10台ほどあった。横浜じゅうでパンを販売、ロバでも移動販売をしていた。
このころに六角橋まで向かったのだろうか?
また、同記事にて同店は前述した「ビタミンパン」のチェーン店ではなく、当時、星野商店にいた職長さんが横須賀で店を開店することになり、一緒に横須賀へ移った、という経緯が発覚。「星野商店」の修行時の経験から「たからや」へ職場を変えてもロバでの移動販売を続けたのだそう。これで「星野商店」と「たからや」の関係がわかった。
「星野商店」さんの「ロバのパン屋さん」。何かのイベントを行った時の写真のようだ
横須賀で「ロバのパン屋さん」を始めた理由は坂が多いから、とのこと。横浜も坂が多いので、もしかしたら、同じ理由からなのかもしれない。
どんなパンが売られていたのだろう
ちなみに、「ロバのパン物語」では日本初の「ロバのパン屋さん」は1931(昭和6)年に始めた札幌の石上寿夫さんの店だと書かれているが、高橋さんいわく同店には昭和3~4年に移動販売用の馬車があったそうなので、横浜の「星野商店」が日本初の「ロバのパン屋さん」の可能性がある。
横須賀ではロバではなくてチャンバという馬を使っていた!
では、「星野商店」と「たからや」の「ロバのパン屋さん」はどのようなものだったのだろうか。
「星野商店」と「たからや」の「ロバのパン屋さん」は、ラッパを吹きながら売り歩くというスタイル。ラッパの音が聞こえてくると、家々から大人も子どもが出て来て、屋台の周りに集まって来たそうだ。子どもだけではなく大人にも、可愛いロバとおいしいパンは大人気だった。現在のように、おやつや甘いものが豊富ではなかった時代なので、パンの売れ行きは良かったようだ。
ゆっくりゆっくり移動していたのだろう
ちなみに、「たからや」では、なんとロバではなくて満州馬の「チャンバ」という馬を使っていたとのこと。「チャンバ」は、横須賀では「チャバ」と言う愛称で呼ばれて、とても親しまれていたそうだ。
馬でも登るのが大変で、後押しをしないとのぼれない坂もあったという。
当時の新聞記事に「チャンバ使い行商」という見だしがある
ロバ(チャンバ)が引いていた馬車の荷台は、大工さんが作ったもので、パンを入れる浅い箱が6個ずつ3列並んでいて、計18個。
当時のパンの値段は、小さめのアンパンが1銭(現在で約30円)、ジャムパン・クリームパン・チョコレートパン・コロッケパン・満洲パン(具にカラシのついたシュウマイが入っていて、パンの上にグリーンピースが2~3個乗っているもの)などが3銭(現在で約100円)、少し大きめのアンパンが6個で10銭(現在で約330円)、食パンが半斤で5銭(現在で約115円)。
また、値段は不明だが、粉つきフランスパンという柔らかいフランスパンも売っていたという。
当時、パンを入れていた箱はこのようなものだった
最後に、投稿にあった1955(昭和30)年ごろまで「ロバのパン屋さん」をやっていたかどうか高橋さんに聞いてみたところ、「たからや」では1939(昭和14)年ごろにやめてしまったが、「星野商店」はやっていた可能性はあるのでは、とのこと。
投稿者の言っていた昭和30年ごろに六角橋に来ていた「ロバのパン屋さん」は、山下町から六角橋まで移動可能な「星野商店」の可能性の方が高いのではないかと思われる。
取材を終えて
1939(昭和14)年に「ロバのパン屋さん」、1955(昭和30)年には「パン売りのロバさん」という歌が発売されていたことが発覚。
「ロバのパン屋さん」の歌詞は分からないが、「パン売りロバさん」の歌詞には「ロバのおじさん チンカラリンロン やって来る」などとあり、当時ロバが馬車を引いて売っており、子どもたちが笑顔になっている情景が伺える。
「パン売りのロバさん」のCD
この歌を聞きながら、「ロバのパン屋さん」が来ていた当時の様子を思い浮かべるのが、とても楽しかった。
―終わり―
mirrorさん
2014年03月14日 18時25分
食べ物の移動販売にかかる話題になると、昭和一桁生まれだった父と母から「ロバのパン屋」と言う単語がよく出ていたのを記憶しています。結婚前、父は高島台、母は戸部に住んでいて、いずれの口からも「ロバのパン屋」と言う言葉が共通して出て来ていた事から、横浜ではかなりポピュラーな存在であった事がうかがえます。
toshikunさん
2014年03月14日 16時31分
星野商店さんはたぶん自分がいた事務所の顧問先だったと思います。25年くらい前に閉店したかと思いますが、お店のマークが星形の中に「の」の字が入っていてとてもインパクトがあり、今でもおぼえています。
BANDO_ALFAさん
2014年03月14日 14時19分
「ロバのおじさんチンカラロン チンカラロンとやってくる ジャムパン クリームパンおいしくできたて(ここ曖昧)いかがです? チョコレートパンもアンパンも なんでもありますチンカラロン」という歌詞だったかと。最後に見たのは昭和50年頃でしょうかね。