八幡橋~杉田駅区間のバス停に「橋」がつくのは元、川だった!?
ココがキニナル!
国道16号線八幡橋の交差点から杉田駅にかけてやたらバス停に『橋』と付くのですが、もしかしてあそこ元川?(yamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
八幡橋~杉田駅区間のバス停で「橋」と付くところには、昔、川が有りました!
ライター:橘 アリー
「橋」と名前が付くバス停は橋の傍に有った?
お話を伺った塩田氏
そもそも、バス路線は、地域の方々からのご要望を受けて引くことが殆どのようで、バス停の名前も、町内会と区役所などが話し合って決めているらしい。
また、「橋」と名前が付いているバス停の傍には、基本的には橋が有り、現在は橋がなくても、バス停の名前がついた時には橋が有ったようだ。
路面電車が走っていた頃の様子
なお、バス停が名づけられた年号に関しては「八幡橋」停留所は1912(明治45)年、「芦名橋」「境橋」「聖天橋」の名前は1925(大正14)年頃らしい。
川はどこにいったのか?
磯子区役所の企画調整課に話を伺ったところ、この地域は大正時代の初め頃、久良岐郡(くらきぐん)屏風ヶ浦村と呼ばれ、「禅馬(ぜんま)川」「陣屋川」「白旗川」「境川」「聖天川」などの川が流れていたようだ。
大正初め頃の久良岐郡屏風ヶ浦村(横浜市教育委員会発行)
明治3年~7年にかけて、磯子区と南区との往来の便を図る目的で、山を切り開いて掘割川が造られ、同じ明治初め頃、間坂の断崖にトンネルを掘る工事が行われ、その残土を利用して海岸沿いに平坦な道路を造ろうと、海岸線の埋め立てが開始された。
埋め立てを進めた葦名金之助の名前が「芦名橋」になって残された。芦名橋の川は今は無いが、その欄干は芦名橋公園の柵として利用されている。禅馬川は暗きょ化され、そこに掛っていた橋はその役目を終えた。
暗きょ化された禅馬川の今の様子
暗きょ化は埋め立てと違い川に蓋をしたような状態なので、土木事務所の説明によると、その下は今でも水が流れている箇所が有るようだ。
埋め立ては何度かに分かれて行われ、その過程で川は姿を消していき、バス停として橋名だけが残った。
便利さの代償として姿を消す川も有り、便利さを求めて造られた川もある。
取材を終えて
疑問に思われた通り、バス停の名前に橋が付く所に、昔は川があった。
現在の国道16号線八幡橋~杉田駅にかけての景色からは、そこに川が有ったとは想像し難い。
しかし閉ざされた川は今でも地下でか細く息づいているのだ。
皆さんの周りに普段の生活の中でふとした疑問はないだろうか。
そこから歴史を紐解くことにより、いつもの風景が違った光景に見えるかもしれない。
―終わり―
2ひるなアヒルさん
2014年10月21日 12時31分
暗きょ化 と言う言葉、初めて知りました。水を治める事業って、今も昔も大変な事ですね。
ノンちゃんのパパさん
2013年06月21日 16時57分
「川はどこへ行ったのか」の中で「境川」にリンクが貼ってありますが、リンク先は、姿を消した「境川」とは関係ない川です。リンク先の「境川」は横浜市の西部を流れ、戸塚辺りを流れる「柏尾川」と合流して江ノ島付近で海に注ぐ川だと思います。
ノンちゃんのパパさん
2013年06月21日 14時53分
バス停といっていますが、これらの停留所の名前は市電の停留所の名前をそのまま受け継いだものだと思います。なお、停留所が無かったのでの現在はまったく痕跡がありませんが、磯子橋と八幡橋の間の横須賀街道にも橋があって、奥に小さなドックがありました。また、市電通りとは掘り割り川を挟んだ反対側ですが、天神橋と中村橋の間にも橋があったと思います。バス停の名前にでもなっていないと川がどこにあったのかは見事に消し去られてしまいます。吉田川、新吉田川も完全に埋め立てられ、大通公園になり、橋の名前だけが残っています。