鮭があるからイクラも? 磯子区のお寺にある謎の大きな慰霊碑「鮭塚」の正体は?
ココがキニナル!
磯子区にある鎌倉時代から続く「金蔵院」というお寺に大きな鮭の慰霊碑「鮭塚」があります。鮭とゆかりの深くない?この地になぜ建立されたのかキニナル。(浜っ子五代目さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
鮭塚は、鮭のみを供養しているわけではない。1978年、金蔵院の檀家さんである横浜市中央卸売市場水産部の役員が管理を引き受けたため妙法寺から金蔵院へ移設
ライター:人見 静馬
住職登場
対応してくださった副住職は、なんとも親しみやすい方であった。砕けた言い方をするならば、近所の陽気なおじさんといった感じである。しかし、真言宗の総本山である高野山・金剛峯寺の厳しい修行も成し遂げた方なのだという。案外、そういった厳しい環境を潜り抜けて来た方のほうが気さくな雰囲気を纏(まと)っているものなのかもしれない。
対応してくださった 眞田有快(さなだゆうかい)副住職
時間がないということで、挨拶もそこそこに鮭塚のことを聞く。鮭塚とは何なのか。何故鮭なのか。イクラはどうなのか。そんな質問に、副住職が豪放に笑って答える。
鮭の名は、1928(昭和3)年に戸塚区名瀬町の妙法寺に建立された当時の重要品目であったことから、そこに供養されている魚の代表で名前を冠しただけで、決して鮭だけをエコヒイキしているわけではないのだという。あの鮭塚には、魚介類全般が供養されているのだと。
塚を管理しているのは横浜市中央卸売市場水産部の方々。人間が生きるためにいただいた魚介類を供養する――そういう趣旨らしい。なるほど。イクラを食べた侍に鮭が祟ったなどという三文芝居のような謂(いわ)れがあったわけではないのだな。
石には屋号が彫られている
これらが鮭塚を管理している方々だという
その鮭塚がなぜ金蔵院に移設されたかというと、元々建立されていた妙法寺では、供養する人が途絶えてしまっていたらしいのである。それを、金蔵院の檀家さんである横浜中央市卸売市場の役員が供養を引き受ける形で金蔵院へ移してきたのだという。時に1978(昭和53)年のことである。なので、今でも十一月十一日(「鮭」の魚偏(さかなへん)をとった圭という文字が十一を重ねた形になっていることから)には、横浜中央市卸売市場水産部幹部の方が訪れて大々的に供養を行うらしい。
由来が彫ってある
もしかすると、その供養される魚介類の中には筆者が食べた魚も含まれているかもしれない。筆者は魚が大好物なのである。確率は高い。
成仏してくれよ・・・。
少し話はずれるが、有快副住職は徳富蘆花(とくとみろか)の小説「不如帰(ほととぎす)」で有名になった、逗子の浪子不動(なみこふどう)を本尊とする高養寺(こうようじ)の住職でもあるとのこと。この浪子不動は、小説の影響で浪子と呼ばれるようになったが、本来の名前は波切不動(なみきりふどう)。そして、この波切不動は波を切ることから船の安全を守る不動でもあり、それを本尊としている高養寺は小坪漁協から守り神として扱われているのだという。金蔵院では鮭塚を供養し、高養寺でも漁港から守り神として頼られる。副住職自身、海との深い縁を感じられているようであった。
ユニークな塚
しかし、鮭(魚介類)の塚があるのならば、別の何かの塚もあるのであろうか。当然出て来る疑問である。それには間髪入れずで「ある」という。
金蔵院には、華道の協会が建立した花塚。
鮭塚とは打って変わって可愛らしい
お花塚
「花を愛し、花に感謝し、花を供養する」という由来も、どことなくロマンチック
鮭塚といい花塚といい、心なしか建立した組織の性格が現れているかのように思える。興味深い。
有快副住職によれば、ほかの寺には茶道の団体が建立した茶筅(ちゃせん/茶道の道具)塚などもあるという。
最初聞いた時は奇妙な物があるものだと思った鮭塚。しかし、こうした話を聞いた後ではそう珍妙にも思えなくなってきた。寺院とは、想像以上に懐の深い施設なのだ。
取材を終えて
いただきます――と言ってはいるものの、それが習慣化して中身のない掛け声になっていたのではないかと今回思った。しかし「いただきます」とは、その生き物・植物の命をいただくということ、振る舞ってくれた方の思いをいただくということ。意味を考えずに口にしたところで、それは形骸化された儀式というものである。本末転倒も良い所ではないだろうか。
金蔵院で振る舞われた茶菓子に、筆者はどういう心持ちで「いただきます」と言ったのだろうか
もちろん、何も毎度毎度深く悩みながら食事をする必要はないと思う。が、フとした瞬間に、自分はさまざまな命に生かされているのだ――と意識するのは、決して無駄なことではないだろうと思う。
今度鮭を前にした時には、ひとつ鮭塚を思い出してから食べてみることにしよう。
話は変わるが、お寺は好きでよく観るのだが、今までお坊さんと直接話したことはあまりなかった。やはり、興味本位で尋ねてはいけないといった先入観(偏見?)があったためである。しかし今回の取材で感じたことは、おそらくこの副住職は筆者が仕事関係なしに尋ねたとしても快く対応してくださったのだろうな、ということである。それくらいの懐の深さは感じられた。本稿でも少し触れたが、やはり厳しい経験を積めば積むほど他者には寛容になれるものなのかもしれない。
2015年4月2日05月21日の間、高野山が開山1200年にあたり、今まで非公開とされていた金堂のご本尊を一般にご開帳するという。これは90年弱もの間、誰の目にも触れたことのない、そこで修行を積んだ有快副住職ですら観たことがないまさに秘伝のご本尊である。人間の器の大きさや懐の深さという物がどういった環境で作り上げられるのか、この金堂見物の際に感じとってみてはいかがだろうか。
ホトリコさん
2014年10月08日 12時42分
植物食は殺生しないと誤解されていたと思っていたら、ちゃんとあったんですね。多分鮭塚と同じで代表して花塚なんだと思います。