故郷に帰ることなく山手の横浜外国人墓地にて永眠、世界遺産の富岡製糸場のフランス人設計者「バスチャン」の生涯とは?
ココがキニナル!
世界遺産に登録された富岡製糸場を設計したフランス人が、山手の外人墓地に眠っているらしい。生まれ故郷のフランスに帰ることなく横浜の外人墓地で眠るその人の足跡を是非調査して!(横濱マリーさん)
はまれぽ調査結果!
富岡製糸場を設計したフランス人、エドモン・オーギュスト・バスチャンは若くして病死してしまい日本で埋葬されていた。その足跡はいまだ謎が多い
ライター:ムラクシサヨコ
いざ、群馬へ!
高崎駅から上信電鉄で最寄りの上州富岡駅へ。
サファリパークがあるからか、こんな車両
駅から10分ほど歩くと、富岡製糸場に到着。
平日でもたくさんの人が訪れていた
「おとみちゃん」が迎えてくれた
では、構内へ。
バスチャンが設計した繰糸所
内部はこんな感じ
東繭倉庫。こちらもバスチャンの設計
思っていたより敷地は小さかったが、レンガが当時のまま、きれいに残っていてビックリ。
しかし、説明パネルなどで総指揮者だったブリュナの名前はしばしば目にしたが、バスチャンの名前はあまり出てこない。あれ・・・と思ったら・・・。
資料コーナーにバスチャンが!
開業期に関わった4人のうちの1人として紹介されている
さらに・・・
売店で売られていた「絵手紙カルタ」にバスチャンの名が
報告書もゲット! この報告書に、最新の調査研究の結果が記されていた!
2014(平成26)年度富岡製糸場総合研究センター報告書に記載された「富岡製糸場のお雇いフランス人たち-フランス現地調査の成果から-」によると、渡仏中だった幕府理事官柴田・剛中(しばた・たけなか)がシェルブール造船所の船工だったバスチャンと契約締結。バスチャンは横須賀製鉄所で働くことになり、マルセイユから上海経由で横浜に到着した。
バスチャンは給料が安いことに不満を言ったり、ヴェルニー(横須賀製鉄所の首長)から「私生活がだらしない」と怒られたりしていたらしい(どんな人物だったのだろうか)。
パネルにあったたバスチャンの顔。集合写真の小さく映っているものしか現存しないようだ
その後、富岡製糸場の設計に携わり、完成後は横須賀に戻る。フランスに帰国することになり、旅費も受け取っていたが、当時の乗船名簿にバスチャンの名前がなく、フランスに帰ったのか、日本にとどまっていたのか不明のようだ。
途中の記録はないが、そののち横浜居留地でピヨンという大工のもとで働き、工部省営繕局に雇われ、東京に移り住む。そこを解雇された後は横浜に戻り、建築事務所を開業した。
1882(明治15)年には娘ジョセフィーヌが誕生。出生証明書がフランス領事、フランス外務省を通じてシェルブールで受理されているが、母親は氏名不詳となっているという(・・・え?)。1884(明治17)年、バスチャンは上海へ渡る。同年に日本人・ヤマダオラクと結婚(オラクは1857<安政4>年生まれで結婚当時27歳、バスチャンは1839<天保10>年生まれなので45歳)。オラクが子どもの母親かどうかは不明。
1888(明治21)年、妻子を伴い、上海から蒸気船で横浜に上陸。その3ヶ月後に死去した。
現在の横浜港。かつて横浜港では、たくさんの「御雇い外国人」が日本と海外を行き来していた
このとき、なぜバスチャンが妻子とともに横浜へ向かったのかは不明である。上海で仕事を解雇されたわけではなかったようだ。
これまではバスチャンの妻子について不明だったため「妻子に自分がかつて働いていた土地を見せるための旅行」という説があったが、この報告書の調査により妻子が日本生まれだと判明したため、「妻子に日本を見せるための旅行」とは考えにくいことが分かったという。報告書には、たまたま旅行をしただけなのか、死期を悟って横浜を終焉の地に選んだのかは不明とある。
バスチャンの死後、妻子は上海に戻り、その後の足跡は分かっていない。また、墓碑にある「La Municipalite Francaise de Shanghai」の意味は「フランス租界工部局が故人を偲んで墓を立てたのではないか」としている。
横浜外国人墓地に眠るバスチャン
<バスチャンの生涯・まとめ>
1839(天保10)年 | フランス・シェルブール生まれ |
1866(慶応2)年 | 来日・横須賀製鉄所勤務 |
1870(明治3)年 | 富岡製糸場の設計者に |
1872(明治5)年 | 横須賀に戻る |
年号不明 | 横浜で大工の下で働く |
1875(明治8)年 | 工部省営繕局に雇われ、東京に住む。解雇された後、横浜で建築事務所を開業 |
1882(明治15)年 | 長女誕生 |
1884(明治17)年 | 結婚 |
1884(明治17)年 | 上海へわたる |
1888(明治21)年 | 横浜で死去(49歳) |
取材を終えて
バスチャンの生涯についてはなかなか資料がなく戸惑ったが、ちょうど2015(平成27)年3月に「平成26年度富岡製糸場総合研究センター報告書」が発行され、そこに詳しく記されていた。バスチャンについてこれまで不明点が多かったが、フランスの現地調査などが行われ、新事実が判明したようだ。
20代の若者が、腕一本で異国の地でたくましく生き抜いた人生は興味深い。「私生活がだらしない」と怒られていたようなので、そのあたりもキニナル。どんな人物だったのだろうか。バスチャンの死後上海に戻った妻オラク(日本人らしくない名前だが日本人だったようで、その名前もキニナル)、娘のジョセフィーヌのその後はいまだわかっていないようだが、二人の人生もまた、キニナル。
―終わり―
駅馬車さん
2015年08月27日 16時40分
とても興味深く、謎も深い記事になりましたね。もっと掘り下げて欲しいと思いますが、当面は無理そうな感じです。富岡製糸場が世界遺産登録されてから、横浜市も急に生糸貿易の話で盛り上げようと言う機運が出てきました。いち早くはまれぽで取り上げておくとよいかも。