横須賀市の山中で京急線と横須賀線が立体交差する理由は?
ココがキニナル!
京急線は京急田浦-安針塚間で横須賀線を跨ぐように立体交差します。逸見ー汐入間は京急も横須賀線も山の中でどう交差しているの?京急が上? 下? 両線のトンネルはどのくらい離れている(横濱マリーさん)
はまれぽ調査結果!
いずれも京急が上。保安上の問題から位置を詳細に公表できないが、立体交差の成立には軍都として発展してきた横須賀の歴史が大きく関係していた
ライター:やまだ ひさえ
第三の立体交差とは
続いては、横須賀市汐入町付近の立体交差について。
地図でもはっきり分かるほど交差している
詳しい経過を聞くためにJR東日本横浜支社に問い合わせをしたところ、トンネルとトンネルによる交差箇所だが、詳しい内容については保安上の問題があるために回答できないとのことだった。そこで可能な限り、文献などで調べてみた。
交差地点の京急線は、1930(昭和5)年4月1日に開通している。では、横須賀線の横須賀駅以南、久里浜まで延長されたのはいつのことだろうか。
太平洋戦争終結まで、横須賀は陸軍、海軍の施設が集中していた軍都だった。
終戦時、横須賀市内にあった軍部施設(提供:横須賀市)
1889(明治22)年の開業当時から、横須賀線の延長は軍部にとって必須だった。
先に計画されていたのは、「東京湾要塞」として重要な役目を担っていた観音崎への路線延長だった。しかし、市街地を通らなければならず、費用の面などから断念。
幻の路線延長
太平洋大戦の開戦とともに浮上したのが、東京湾の入り口であり、海軍通信学校、工作学校、水雷学校分校など、軍の重要施設のあった久里浜への延長だ。
1940(昭和15)年夏に測量を開始。最短距離を取るために、横須賀駅から直ぐに2つのトンネルを掘り、衣笠、久里浜へと通じる8.4㎞の計画が立てられた。
駅舎のすぐ横にトンネルがある
踏切には起点、終点を示す文字も
「第三の立体交差」は1941(昭和16)年8月に起工すると太平洋戦争勃発後は、急ピッチで工事が進められ、2年8ヶ月という短期間に連続する2つのトンネルを通し、完成。1944(昭和19)年4月、単線での開通にこぎつけた。
地形の関係でトンネルが連続している
手前が逸見(へみ)トンネル、73メートル。奥に見えるのが横須賀トンネル。開業時に2089メートルにもなった、京急線のトンネルと交差しているトンネルだが『横須賀市史 市制施行80年記念』版の中で、興味深い記述を見つけた。
『横須賀市史 市制施行80年記念』 (フリー画像)
横須賀トンネルの工事に際して問題となったのは、京急線の路線と、1919(大正8)年の(旧)道路法制定に伴う路線の再指定によって制定された「(大正)国道31号(横浜~横須賀鎮守府)」の立体交差だった。横須賀駅から汐入までの距離が短いことと、勾配を考慮すると、京急の線路の上か下を移動しなければならなかった。
丘の中に京急の線路が通っている
しかし京急線の上を通るためには急勾配でなくてはならないことに加え、都市交通上も防衛上も好ましくないという結論にいたった。
そのために考えられたのが、京急のトンネルをくぐるように入り口と出口に勾配を設けた、当時としては全国でも珍しかった路線断面が凹型のトンネルだ。
内部には入れないため、トンネル立体交差の予想図
2つのトンネルの間は、崩落などを防止するために十分な距離がとられた。そのため横須賀トンネルは、かなり深い場所を採掘することになり、かなりの難工事だったようだ。
『横須賀市史 市制施行80年記念』には、「横須賀駅から下り勾配をとるため、汐入の最低部でも平均潮位より1.5mの標高となり、満潮水位とほぼ等高という結果になった。そのためトンネル内に湧き出る地下水はすべてこの最低部にあつまり、排水設備を必要としたので、汐入町5丁目に揚水ポンプ室を設け、地表に排水することにした。(原文ママ)」とある。
汐入町にあるポンプ室
鉄条網がはられ、厳重に管理されているポンプ室。トンネルの交差地点からは少し離れた住宅街の一角にある。
排水のためのパイプが伸びている
現在も稼働しているのか、近くに行くと、水の流れる音がする。ご近所に住むお年寄りによると、「昔は、前の道を大量の水が流れていた」とのことだ。それだけ大変な工事だったことが想像できる場所だ。
ポンプ室の向こうにトンネルがある
より立体交差地点に近づくために、近くまで行くと、ポンプ室から歩いて5分もかからない場所に、京急の踏切があった。
交差地点に一番近い踏切
踏切は、両方をトンネルに挟まれた場所にある。
下り方面のトンネル
トンネルの先に京急汐入駅が見える。上り方面もすぐにトンネルが迫っている。このトンネルの下に、横須賀線のトンネルが通っている。
横須賀線と立体交差している京急のトンネル
太平洋戦争末期、突貫工事で完成した横須賀線の延長工事。資材不足のために、御殿場線の片側のレールを使っている。延長路線上で最大の難工事だった横須賀トンネルは、当時、関東では第2位の長さを誇っていた。
通過に2分ほどかかる
開業翌年の1945(昭和20)年には、複線化が予定されていたが、終戦。当時の輸送量では単線で十分という判断が下され、現在に至っている。
トンネルを抜けると駅だった
明治、大正、昭和と、軍都としての道を歩んできた横須賀。激動の歴史の走る生き証人が、横須賀線だ。
取材を終えて
三浦市在住の筆者は、普段、京急利用者だ。もちろん、横須賀線も利用したことがあるので、立体交差も横須賀トンネルも知っている。
が、トンネルの中に坂があり、それが戦時中に造られたものだということは初めて知った。
正直、乗車しているときに下っていることを感じたことはない。歴史の新たな一面を知った取材だった。
―終わりー
参考資料
『横須賀市史 市制施行80年記念』発行:横須賀市
『横須賀案内記』 発行:横須賀市
ushinさん
2016年11月22日 20時23分
「そのため横須賀トンネルは、かなり深い場所を採掘することになり、かなりの難工事だったようだ。」・・・「採掘」?なにか採れたんですか?こういう場合は「掘削」じゃないんでしょうか?だれか校正してないのかね・・・地味にショボいよな。
よこはまいちばんさん
2016年04月18日 14時24分
今でも需要が少なく仕方ない事なのでしょうが、今回の調査結果をみて改めて「横須賀-久里浜」間の複線化がキニナッテしまいました。自分の生活圏ではないものの横須賀以遠の運転本数が少ない事や終電が早い事などを見る度に、住民は不便さを感じていないのかな~?と思ってしまいます。乗り換え等を面倒がらなければ京浜急行利用もありなのでしょうが・・・
ホトリコさん
2016年04月18日 12時27分
常々、横須賀線は不思議な蛇行&駅も欲張り過ぎて多いなと思っていたのですが、先に開通していた京急に美味しいところを取られて、次に多目のニーズに答えた結果ああなったんですね。