逗子の住宅街、踏切のない線路はかつて弾薬を運んでいたって本当?
ココがキニナル!
逗子駅の東にある単線の廃線?っぽい線路とトンネルが気になります!道路を横切ってるのに踏切もないし、冒険してみたくなる線路です。京急逗子線と横須賀線が交差する近くの三叉路の手前です(タロー先生さん)
はまれぽ調査結果!
戦前に敷かれた線路は、弾薬の輸送に使われ戦後米軍に接収された。現在は総合車両製作所が修理を終えたり新しく作られたりした電車を通すために使用
ライター:橘 アリー
池子弾薬庫のための線路だった
ご近所で、古くからこの辺りに住んでいる方々に、線路とトンネルについてさらにお話を伺ったところ、この線路とトンネルは戦前に造られたもので、トンネルの先には池子弾薬庫があった。そして、線路は弾薬の輸送に使われていたそうである。
伺った内容を基に資料で調べると、池子弾薬庫とは、旧日本海軍が池子の森に作った、弾薬などを貯蔵するための倉庫のことだった。
トンネルの西側は閑静な住宅地となっている
この地域は、明治時代の初めごろまでは自然豊かな農村だった。しかし、明治政府が日本の近代化を急ぐ流れの中で、横須賀に旧日本海軍の軍事施設が造られた。東京と横浜、横須賀に至る交通の整備が必要となり、1889(明治22)年に逗子駅も開業し横須賀線が全面開通となった。
その後、大正時代から昭和の初めにかけて第一次世界大戦、満州事変などが起こる。1937(昭和12)年の日中戦争が始まると、旧日本海軍が海軍用地として、池子と周辺の土地を買収するようになった。
ピンクで囲まれたところが、池子弾薬庫のあった場所(『池子の森』より、1981年航空写真)
それまで豊かな自然に満ちていた池子の森は、帝国海軍軍需部池子倉庫を建設するため、否応なしに強制的な土地買収が行われ、池子弾薬庫が造られた。
明治時代に横須賀線が敷かれ、昭和の戦前に池子弾薬庫が造られた時代の流れの中で、正確な年月は不明であるがトンネルと線路は造られ、弾薬庫への弾薬などの輸送に使われていたようだ。
当時は、横須賀の軍事施設から線路を利用し、池子の弾薬庫に弾薬などが運ばれていたという。
踏切は無いが、車は信号の手前の線路前で停車している
踏切のない線路上を、ゆっくりと車は通過していく
そして、終戦後は連合国軍に池子弾薬庫は接収された。1951(昭和26)年に、対日平和条約が結ばれ、池子弾薬庫は連合国軍接収地から米駐留軍所属への提供区域へと変わったが、池子の森は恐ろしい戦争のための弾薬倉庫地帯であることは変わらなかった。
危険な弾薬庫の全面返還を市民は以前から強く望んでいたが、危険性を心配していた通り、1947(昭和22)年には、7棟の弾薬庫が次々と爆発し山林1ヘクタール(1万平方メートル)を焼失、従業員1名が死亡するという、大きな爆発事故も起きていた。
現在、池子トンネルの外側は崩れないような施工がされている
その後、3年間続いた朝鮮戦争が1953(昭和28)年に終わり、その翌1954(昭和29)年に市制施行により逗子町が逗子市となると、市を挙げての弾薬庫の返還運動が起こった。
こうした運動の結果、1972(昭和47)年に池子弾薬庫の一部を含むエリアの約6ヘクタール(約6万平方メートル)が返還され、その後、第一運動公園として整備された。
しかし、弾薬庫の全面返還は簡単には実現せず、弾薬庫が閉鎖されるようになったのは昭和50年代になってからであった。
赤丸が「池子トンネル」で青丸が「第一運動公園」
1977(昭和52)年に弾薬庫から弾薬が最終搬出され、翌1978(昭和53)年に弾薬庫は閉門となった。その際、弾薬庫で働いていたアメリカ軍人、日本人従業員も引き上げたという。
そして、線路は現在のように、新しい電車や修理した電車を通すために使われるようになった。
第一運動公園の中は広々として見晴らしが良い
池子トンネルと線路は、言葉では簡単に言い表せないほどの厳しい時を経て、現在は新しい電車を運ぶ平和な道として使われている。
池子トンネルの先は?
池子トンネルを抜けた先は、京急線と並行し、豊かな緑の風景の中を延びている
踏切を過ぎると
線路上にゲートが降りて閉鎖されている
新しい電車、修理された電車は、このゲートの先からやって来る。
最後に接収(米駐留軍所属)当時の様子について、この地で生まれ育った方に伺った。
線路の近くで親子2代に渡って営業している山下クリーニング店
店主の山下則之(やました・のりゆき)さん
山下さんによると、弾薬庫の閉鎖前は、この線路を貨物列車やSLなどが通っていたそう。
現在の第一運動公園の辺りは、フェンスで閉鎖されていて入れなかったが、アメリカの独立記念日である7月4日には、米軍施設の一部が開放され、中に入ることができた。子どもだった当時、そこでハンバーガーなどを食べたことが、印象に残っているそうである。
取材を終えて
以前の線路とトンネルは、危険な弾薬を運ぶために使われていた。しかし現在は、廃線のようにも見えるが、実は新しい電車を運ぶという希望ある目的で使われていると分かり、嬉しい思いがする。
―終わり―
参考文献
『池子の森』
『逗子市史』
Michさん
2016年07月16日 04時09分
Google Earthで確認できる。神武寺駅から金沢八景駅の先まで一線だけレールが3本敷設されています。
ushinさん
2016年07月13日 22時25分
「踏切がない線路」IKさんもいうように「踏切」とは、道路を線路が横切る(線路を道路が横切る・・・どっちでもいいや)場所のこと。第四種踏切云々とかいう鉄ヲタがどうこういう以前に、「日本語」として知っているべき言葉ではないの?だからはまれぽのライターは・・・ムニャムニャ
浜岩さん
2016年07月13日 21時40分
横浜じゃないけれど相鉄の相模大塚駅近くにも厚木基地へ行く線路があります。走っているの見たことないけど、そこも草ぼうぼうです。ここは弾薬じゃないけれど、ジェット燃料を運ぶためとか聞いたことがあります。米軍ってすごい力だったんですね。