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横浜市と鎌倉市の境に飛び地ができたわけとは?【前編】

ココがキニナル!

隣接している戸塚区影取町と鎌倉市関谷では、関谷の中に影取町の飛び地が1か所、影取町の中に関谷の飛び地が3か所あります。一体なぜなのか、理由や現地住民はどう思っているのか(だいさん/ふわとんさん)

はまれぽ調査結果!

今回の飛び地の場所一帯は鎌倉郡に属していた。影取町は1889年に横浜市となったため、隣接する鎌倉市関谷との間に飛び地が生まれた可能性がある。

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ライター:小方 サダオ

文献に残された影取町と関谷の飛び地



影取町と関谷の飛び地について文献を調べてみると記述があった。

戸塚区史刊行委員会著書の『戸塚区史』には「戸塚区影取町は『山谷新田(さんやしんでん)』と呼ばれ1615年~1644年ごろに玉縄(たまなわ)の村民らによって開墾された。東は城廻り村(現鎌倉市)飛地、南は大鋸町(だいぎりちょう:現藤沢市)、西は東俣野村、北は深谷村飛び地と隣接する」

 

城廻り村(青線)、藤沢町(紫線)、東俣野村(緑線)、深谷村(赤線) (『大日本郡分地図の内 神奈川県の部』)


「山谷新田」と呼ばれていた戸塚区影取町

 
「全村高地で田地はほとんどなく、城廻り村飛地のうちに飛び地がある。東海道が大鋸町から西境を東北に通じて東俣野村と分界をなし、深谷村飛び地と東俣野村との境目を通る。元禄国絵図(江戸幕府が諸大名らに命じて作成・提出させた一国単位の絵図)にその村名が見える」とある。

江戸時代から投稿の場所のあたりには飛び地があったようだ。

さらに皇国地誌には、現在の影取町は「中世は、上村岡郷内玉縄村(現鎌倉市)に属し、荒原の地であったという。新編相模には、元和ー寛永(1615~1644)ごろに藤沢宿の人、金井宗斎(かない・そうさい)および玉縄の村民らが開墾した。1868(明治元)年6月韮山県(にらやまけん・1868〈慶応4〉年に明治政府によって設置された県)になり、同年12月神奈川県となったが、1878(明治11)年11月鎌倉郡に編入され旧村に戻った」

「1884(明治17)年6月大鋸町(現藤沢市)など5ヶ町村ともに連合戸長役場(れんごうこちょうやくば)を置き、1889(明治22)年4月上俣野村、東俣野村と合併して俣野村(現横浜市)となった」とある。

つまり、現在の戸塚区影取町にあたる山谷新田はそれまでは鎌倉郡(1948〈昭和23〉年まであった現鎌倉市全域に横浜市と藤沢市の一部を加えた地域)に属していたが、1889(明治22)年に横浜市となったのだ。

 

玉縄村(赤線)、俣野村(青線)、藤沢町(緑線)

 
続いて皇国地誌に「1915(大正4)年8月、従来組合村(村連合)となっていた俣野村、長尾村、富士見村が地勢・風土などの違いから利害が反するため解散、畑作地帯の地域は新たに鎌倉郡の大正村となり、山谷新田もこれに加わった」

 

俣野村(青線)、長尾村(緑線)、富士見村(赤線)との組合を解散し、一部が大正村となった

 
「1939(昭和14)年4月横浜市に編入され戸塚区に属し影取町となった」とある。

次に『大日本郡分地図の内 神奈川県の部』によると、明治時代の投稿の場所は、相模国(現神奈川県)にあった鎌倉郡にあたる。

 

影取町(青矢印)は鎌倉郡に属していた

 
影取町は、以前は現鎌倉市の玉縄村に属していていたが、その後横浜市に編入されたのだ。これが鎌倉市関谷の飛び地が影取町にある要因の一つかもしれない。

次に関谷に関しては、金子勤著書の『神奈川県の地名』に「関谷は低丘陵が囲む谷あい地。地名の由来は、もとは関屋と書き、玉縄城本丸への関所があったことによるという」

「関谷村は江戸期~1889(明治22)年の村名。『新編相模』によれば、江戸から12里(約47km)、東西凡10町(約10ヘクタール)、南北凡7町(約7ヘクタール)、その半分は城廻り村にかかるという。1868(明治元)年神奈川府を経て神奈川県に所属。1889(明治22)年玉縄村の大字となる。はじめ玉縄村、1933(昭和8)年大船町、1947(昭和22)年鎌倉市の大字となる」とある。

 

玉縄城跡の近くに建つ清泉女学院

 
さらに『角川日本地名大辞典』によると「関谷村は『鎌倉市関谷・玉縄2丁目5丁目。玉縄城跡の西北方に位置し、北は小雀村(現横浜市戸塚区)、東南は城廻り村、南は柄沢村(現藤沢市)に属する。元は付近の村とともに玉縄村と称していたが、元禄年間(1688~1704)に分村したという。1879(明治12)年の田23町一反余り(約23ヘクタール)・・・飛び地は田10町3反余り(約10ヘクタール)』」とある。

 

玉縄村(緑線)、小雀村(赤線)、城廻り村(青矢印)、柄沢村(紫線)

 
関谷は江戸時代から鎌倉市に属していて、飛び地も1879年にはあったようだ。

投稿の場所は、隣接する街との編入や離脱により属する行政区が変わり飛び地が生まれた可能性があるようだが、なぜ住所を以前のままにすることにこだわるのであろうか。後編ではその理由を探ってみたい。



取材を終えて



明治時代の鎌倉郡の広さには驚かされ、時代により“鎌倉”という名前が大きな影響力を持っていたことが伺えた。


―終わり―
 

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