磯子区丸山町公園はかつて処刑場だったって本当?
ココがキニナル!
磯子区丸山2丁目付近に刑務所があたそうです/丸山公園が処刑場の跡地にできたと聞きました。何のための処刑場だったのか?処刑場があったなら、なぜ跡地に公園をつくったのか知りたい(チヤカ坊さん/zaoさん)
はまれぽ調査結果!
磯子区丸山町公園は、かつて1899年~1923年の間機能していた横浜刑務所の跡地に作られているが、文献に処刑場の記述はあった。
ライター:山崎 島
市史資料室もいい匂いがする
横浜市史と磯子区史を照らし合わせながら、まずは刑務所について調べてみた。1859(安政6)年~1899(明治32)年まで西区戸部に設置された監獄の記述の後に、根岸の監獄についても記されていた。確かに磯子区丸山には監獄の「神奈川県監獄署(以下、横浜監獄)」があったようだ。
では根岸の監獄の歴史をまとめていく
根岸の監獄が開かれたのは1899(明治32)年。それまでは戸部の監獄が使われていたそう。戸部の監獄は囚人の増加や建物の老朽化のため、1893(明治26)年の県議会に新しい監獄建設が提案され、可決。建設地は堀割川沿いの、現・磯子区丸山が選ばれた。
なぜ丸山なのか、理由が明記された資料は見つからなかったが、7280坪(約2万4024平方メートル)だった戸部の監獄の、約3倍の広さである2万2000坪余り(約7万2600平方メートル。横浜スタジアム約2.7個分)の大きな施設が作られ、1899(明治32)年2月6日に当時「神奈川県監獄署」として開かれた。新しい監獄は周囲に高さ4.5メートルの煉瓦塀を張り巡らし、敷地内には34棟の建物があったそう。
根岸の監獄と周辺の当時の地図を見てみると、その大きさに驚く。
現在(左)と当時(右)の監獄の配地図(『岡村の歴史夜話』より)
うっはー、結構当時の街の面影、残ってるんじゃないでしょうか。丸山町公園って監獄の一角だわ。
監獄内の建物については『横濱開港50年史』に詳細が書かれており、分房(ぶんぼう)・雑居房・女拘留置監(じょこうりゅうちかん)・病監・見張所・教誨(きょうかい:悪事をした者をさとす)所・闇室・糞尿溜・物置・作業所・浴室・死體(=死体)置場・薫蒸(くんじょう:薬剤による殺菌)場・厠・食物受渡所・接見場・倉庫・第二事務所・人民控室・馬車置場・運動所・検身室・屏禁(へいきん)室、そして死刑場があったとのこと。
こちらの資料には根岸の監獄に処刑場があったと、確かに書いてある。しかし監獄内のどの場所にあったかや、何が行われていたかなど、詳しい資料は見つからなかった。
施設の名称は無いけど、刑務所内の図(同)
上写真の左下の部分が現在丸山町公園の場所なのだが、ちょっと思わせぶりな長方形がある。これなにかなあ。もしや、これが処刑場?
すると磯子区制50周年記念事業委員会発行の『磯子の史話』に、丸山町公園のことがずばっと書かれている部分を見つけた!! なんと、獄舎の肥溜めがあった所が、丸山町公園のあたりだというのだ。えー、肥溜め!? 記事のオチがまさかの肥溜め!? ほかの資料からこの記述の裏を取ろうとしたが、やはりなかなか有力な情報はつかめず・・・
資料での調査に行き詰まり、野毛山公園でお弁当を食べ、「久しぶり!」と知らない人から声をかけられて、再び資料の前に戻ってきた。それ以降も丸山町公園の過去ついて、詳しい資料は見つからず・・・とにかく根岸の監獄の歴史について最後まで書こう。
この図には丸山町公園の位置も書かれている(同)
そんなこんなで「神奈川県監獄署」は、人々からは「横浜監獄」や「根岸監獄」と通称されていた。途中1903(明治36)年に管轄が変わり、「横浜監獄」と改称になる。その上1992(大正11)年には司法省の監獄局を行政局と改称したため、最終的には「横浜刑務所」と称された。
また、監獄の正門前にあった現在の「根岸橋」は、かつて「かんごく橋」と呼ばれており、地元の人は通るのを嫌がったのだとか。堀割川沿いは桜の名所として有名な散歩道だったそうで、微妙な気持ちでお花見をした人もいたのでは。
堀割川沿いに桜があった
資料の中には地元の人が語る「横浜監獄」の様子が書いてあった。塀の外から中を見ることはできなかったが、晴れの日には囚人服が干されていたり、鎖につながれた囚人が塀の周りの草むしりをする姿はたびたび目撃されていたそうだ。
威容を誇る「横浜監獄」だが、竣工から約24年後、その役目を終えることになる。1923(大正12)年9月、関東大震災が起こり建物は全焼。看守2名、受刑者52名が犠牲となった。震災が起こった当日、当時の椎名刑務所長は、受刑者を収容する場所や食料の確保ができないため、24時間以内に刑務所、又は警察署に出頭を条件に生存者を解放。多くの受刑者は、翌日刑務所に戻り、応急施設の建設などにあたったという。
丸山町公園あたりにはそんなエピソードもある
その後震災復興の過程で、根岸は近い将来発展するという見通しがもたれ、「横浜監獄」は現在の港南区港南に移転された。
現在の横浜刑務所の場所(Googlemapより)
監獄の跡地は大蔵省が売りに出したがなかなか売れず、東京・青梅の綿糸問屋の前川太郎兵衛(まえかわ・たろべえ)が買い取って分譲した。しかし、しばらくの間はそのまま放置され、昭和の初めごろからちらほらと建物が建ち始めた、とのことだった。
と、だかだかっと根岸の「横浜監獄」の歴史について書いてきたが、でもまだ肝心の処刑場について明記されている資料がない。これは詳しい人に聞くしかなーい! ということで、磯子区で生まれ育った磯子区郷土史家の葛城峻(かつらぎ・しゅん)さんのところに行ってきた!
横浜監獄に処刑場はあった?
はまれぽでも過去に何度もお世話になっている葛城さん。磯子区の郷土誌『やぶにらみ磯子郷土誌』や『岡村の歴史夜話』なども執筆されており、今回の調査でも拝見させていただいた。
では、さっそく本題に入る。
宜しくお願い致します
まずは、現・磯子区丸山にかつての「横浜監獄」がなぜ建設されたのか伺う。
葛城さんによると「吉田新田が出来た後、横浜は開港し、中心地である中区周辺などが発展していきました。そこで、中心地には置けないような施設(迷惑施設)が、少し離れた磯子区北部に設置されたのです。設置された場所は当時、堀割川と沿岸道路の開通によって中心地と地続きになりました。人家などはなく野原だったようで、刑務所の設置にも都合がよかったのではないでしょうか」とのことだった。
『横濱開港50年史』の監獄内に処刑場があったという記述については「(葛城さんの考察では)処刑場はなかったが、『横濱開港50年史』の情報元を確認しないと分からない」のだそう。
明治末ごろの刑務所の様子が分かる貴重な写真(葛城さん提供)
「そもそも処刑とは頻繁に行われるものではなく、現在でも地方にある7つの高等裁判所管轄の拘置所(横浜の場合、東京拘置所)で執行されます。そのため、処刑自体は、根岸の監獄では行われていなかったと思うが、処刑があったかどうかの事実は明確に分からないですね。ただ、根岸の監獄では終身刑の罪人などはいなかったようで、刑期はだいたい5~10年程度。長くても20~30年ぐらいだった」と話してくれた。
後日、『横濱開港50周年史』の記載内容を確認するための資料を探して、横浜開港資料館へ問い合わせたり、再度図書館へ行ってみたが、残念ながら見つからなかった。
続いて、丸山町公園の場所が肥溜めだったという記述については、「公園の位置に肥溜めがあった認識はないが、建物各棟にはあったことは考えられます。しかし、各棟にある糞尿をさらに1ヶ所の肥溜めにまとめるのは、おそらく汲み取り業者が作業をしやすくするため。当時の状況から考察すると、そこまで設備を整えられるとは考えにくい」とのこと。歴史的背景から推測すると、丸山町公園に肥溜めがあった可能性は低いんですね。ふむふむ・・・ほっ。
関東大震災前の「横浜監獄」の大きな地図(葛城さん提供)
また、ほかの場所は建物が作られたにもかかわらず、なぜ丸山町公園は公園になったのか伺うと「刑務所移転の跡は更地になったが、縁起が悪く買い手がつかなかったので、公園になったのかもしれない」と答えてくれた。
最後に、葛城さんを始め、地域の方はかつて刑務所や処刑場があったことに関して、どう思っているのか聞いた。
「地元の人には、刑務所をはじめ伝染病の隔離病棟や野犬抑留場などの迷惑施設があったことで、他地域住民から差別の目で見られたり、後ろめたい気持ちを持ったりしている人もいるかもしれません。しかし、それらの施設を受け入れたことは、横浜の中心部が発展しその下支えを行ったことになります。地元の人には、自信と誇りを持ってほしいです」。力強く、はっきりしたお言葉でした。
葛城さんの長年の調査による知識と考察、本当に頭が下がった。とても説得力のあるお話を聞けたのだが、処刑場に関しては葛城さんでさえも明確なことは分からず・・・
丸山町公園でブランコに乗り、気持ち悪くなってたら子どもが親切にしてくれた
でももうちょっと粘って、公園を管理している磯子区土木事務所にお話を伺った。しかし、公園担当の人も詳しい歴史は分からず、監獄についても初めて知ったとのことだった。
公園自体は1941(昭和16)年に民有地を市が買い取り、厚生省と建設省から補助を受け、1958(昭和33)年に公園として供用を開始したそう。それ以上は資料がほとんど残っていないため、不明だった。
磯子区丸山町公園は、かつて処刑場だったのか。明確なことは分からなかったが、大きな監獄があり、震災という厳しい出来事も乗り越えて来た、ということは分かった。噂は、特にちょっと怖かったり悲しかったりする話は一人歩きしやすいけど、処刑場はあったとしても実際に使われていた可能性は低い、ということで、今回の調査を終えたいと思う。
取材を終えて
「公園の地面掘ったら手がかり見つかるかもしれないですね。小島さんの権力でなんとかなりませんか?」って聞いた時の、編集部・小島の不安そうな顔が忘れられない。
―終わり―
参考文献
『横濱開港50年史』
『磯子の史話』
『開港のひろばNO78』
『やぶにらみ磯子郷土誌』
『岡村歴史夜話』
rincoさん
2017年08月22日 00時13分
滝頭小学校に通ってたとき毎日通ってました。学校とか大体そんな噂がありますよね。今住んでるところから行ってた中学校もなんか噂があった気がします。写真見ても昔だったのでこんなとこだったっけ?って感じですが…懐かしかったです。
チーたんさん
2017年02月16日 20時53分
その話聞いたことある。近くのマンションの工事現場から人骨が沢山出てきたと現場の人から聞いたこともありますよ。
おかむら3さん
2016年12月15日 09時09分
滝頭にガラの悪いのが多いのは受刑者の親族が移り住んだからって聞いたことある