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バーなのに絶品中華!? 名店のバーテンダーも通う都橋商店街の「華」に突撃!

ココがキニナル!

野毛の都橋商店街2階の“華”。スナックだけど、中華料理が大人気のよう。キニナルけど怖くて入れません/ママさんは中華のコックさんだったの?(よこはまカエルさん・Walkman8888さん)

はまれぽ調査結果!

父は元・華正樓の料理人、弟は崎陽軒本店の初代総料理長だった中華料理人一家。美味しい広東料理と、店主の人柄がお客さんを繋ぐ居心地の良いバー

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ライター:紀あさ

家族はほとんど中華料理人



1947(昭和22)年、横浜生まれ、本牧育ち。生まれた時の名前は、曽笑容(そ・しょうよう)。お客さんの中には「笑容さん」と呼ぶ人もいる。

両親は中国の広東省順徳県出身で、戦前に日本に渡ってきた。7人兄弟で、姉、姉、兄、姉、容子さん、弟、妹。第3子の兄からが日本生まれ。
 


広州の夜景(フリー素材より)

 
「食は広州にあり」のフレーズで知られた広州料理。容子さんの家族はほとんど全員が中華料理に携わっているという。

父・曽文華(そ・ぶんか)さんは中華街の老舗「華正樓(かせいろう)」で料理人をし、のちに本牧に自らのお店、栄華樓(えいかろう)を開いた。母は職業料理人ではなかったが、家庭料理が上手で、容子さんも小さいころからよく手伝っていた。
 


父は名店の出身

 
「華」の店名の由来は、父の店「栄華樓」と、母が営んでいた小さなパチンコ店「栄華(えいか)」の両方にあった「華」の字をとった。

弟・曽兆明(そ・ちょうめい)さんは、崎陽軒本店の初代総料理長を務めた人物で、フジテレビ『料理の鉄人』などでも知られた名料理人。しかし、2005(平成17)年に、56歳で逝去した。
 


崎陽軒の味を支えた

 
学生時代を終え、一人暮らしを始めた容子さんは、食べていくために、両親に内緒で関内のクラブに勤め始めた。
 


「でも夜電話しても家にいないからバレていたかも」

 
そのころから「35歳までにお店を出さなきゃ、自分のお店が持てない」と考えていた容子さんは29歳の時、一念発起。夜は関内で働きながら、昼に調理師学校に通った。学費は月に3万円。当時の額では大金だった。追試になると1科目につきさらに1000円かかった。

父からは「料理を覚えたいなら店を手伝え」と言われたが、料理の腕ではなく、店を開くための調理師免許が欲しかった。1年間毎日、月から土まで昼は学校、夜はクラブで働いた。
 


「絶対に追試代を払いたくなかったから、追試は1科目もないのよ」

 
「超くたびれていても、お金~! って思って」頑張ったのだそうだ。
 


そして調理師免許をゲット

 
両親からは「中国に戻って暮らすことはないし、日本の国籍をとりなさい」とずっと言われていた。「でも私たちはこのまま(中国国籍)でいさせてね」とも。

兄弟の中で一番最後になったが、調理師免許をとって自らの店を出すときに、帰化して岡田容子という氏名を持った。



都橋との縁、「華」の始まり



姉が新宿で店を持っていたため、最初はゴールデン街への出店を考えていた。だが候補だった物件は「また貸し」の店で、大家に払う額と別に、また貸し主にも月に数万円の条件に同意しかねた。

そのころ関内のクラブで一緒に働いていた仲間が都橋商店街に店を出した。時を同じくして運良く現在の場所が空き、仲間も近くにいることから出店を決意。1981(昭和56)年9月のオープン以来、ずっとここで「華」を営む。
 


「もしゴールデン街でやっていたら続かなかったかも」

 
お店を始めたころは、容子さんの母が、店で出すためのシューマイと、容子さんのためのお弁当を作って持ってきてくれていた。

それを知っているお客さんたちは「『ママ(容子さんの母)、きょうお弁当ある?』って、私が食べる前にほとんどお客さんに食べられちゃって」と容子さんは当時を思い出して笑う。
 


「母もうれしかったんでしょうね。『あるよー』ってお客さんに出していました」

 
ちなみに、広東は稲作地域で、広東料理には小麦は使われない。シューマイは米粉で作るので広東料理だが、現在名物の餃子は小麦粉から作るため、広東料理ではないそうだ。母ではなく、義理の兄から教わった味なのだという



苦難の時代



関内のクラブのころからのお客さんが都橋にも来てくれていたが、2004(平成16)年の東横線桜木町駅の廃止は、ちょうどそのお客さんたちが定年を迎える時期と重なった。

駅と常連さんが同時になくなり、辛い時期のある日、集金に来た有線放送のおばさんに「高島町で昼のランチの手伝いを探してる店があるけど、いい人いないかな」と相談され「私、行くわ!」と働き始めた。

昼はパート、夜はお店の生活は、いい勉強にもなった。たくさん食べる人のご飯を多めに盛ってあげたりもした。


「儲けなきゃいけないけど、『お客さんに喜んでもらうのが先』って」


志願して入ったのに自分から辞めるのは勝手すぎると、昼のパートも4年近く続けていた。

お客さんがブログで宣伝してくれたりして「華」が再びにぎわうようになってきたころ、高島町のマスターが「昼営業やめようかな」と言いだし、円満に解消した。




ここで36年



「華」は今年36年目。2年前までは、都橋商店街の組合長を4期8年間務めていた容子さん。

「ここの人はみんな一国一城の主だから意見をまとめるのは大変だった」というが、「自分が辞めるとき、次の人がすぐ決まるような店じゃないといけないんじゃないの」と、今のことだけでなく先のことまで考えて説得。トイレ、屋根、下水道など共用部分の整備も手掛けた。
 


共用部分は組合で管理

 
野毛都橋商店街ビルは、横浜市建築助成公社が所有しているため、何かをする際には役所での交渉も必要で、2015(平成27)年に役目を終えた時は「本当にほっとした」そうだ。

ビルの外観からは想像つかないほどきれいなトイレを見ると、「華」だけでなく商店街全体をも作ってきた容子さんに、感謝の思いで頭が下がる。甲斐あって60店舗は現在満室、空きを待つ人もいるほどだという。