検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

日本初の跨線橋は? 横浜・神奈川区の青木橋と東京・品川区の八ツ山橋はどっちが古い

日本初の跨線橋は? 横浜・神奈川区の青木橋と東京・品川区の八ツ山橋はどっちが古い

ココがキニナル!

青木橋は1870年にかけられたとされていますが、なぜか日本初の跨線橋は1872年にかけられた八ツ山橋と言われます。これはどうしてでしょうか。青木橋の歴史を調べて真相を確かめてください(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

青木橋の完成は、記録によれば確かに八ツ山橋より早い。にもかかわらず八ツ山橋も日本初の跨線橋と呼ばれるようになったのは、鉄道開通期に合わせたからという可能性がある。

  • LINE
  • はてな

ライター:結城靖博

どちらが先か? 跨線橋誕生の謎解きを開始


 
さて、二つの橋の現状を確認したところで、いよいよ本題の探索に移ろう。

初めに、横浜の土木建築史に詳しい専門家にこの件について問い合わせてみたが、これについてはわからないとの即答を得る。というわけで、今回も自力で資料を漁って、真実を紐解いていくしかないようだ。
 


困ったときの横浜市中央図書館へGO!

 
調べていくと、跨線橋の成立には、新橋~横浜(桜木町)間の日本初の鉄道開通の経緯、なかでも鉄道建設上重要な課題となった「海上築堤造営」と「切り通し工事」が深く結びついていることがわかってきた。

1872(明治5)年9月12日(新暦10月14日)、華やかな開通式とともについに新橋~横浜(桜木町)間を蒸気機関車が走り、ついに日本の鉄道史が幕を開けた――と、一般的な近代史では伝えている。
 


一曜斎国輝作『神奈川蒸気車鉄道之全図』1870年(横浜市中央図書館所蔵)

 
上の浮世絵は、鉄道開通当初の鉄路を走る汽車を描いたものだ。とはいえ浮世絵なので写実とは言えず、絵師が資料や想像をもとに描いたものだろう。

だがそれなりに事実は押さえている。小さくて見えないと思うが、画面右手の丘の上に「䑓町」という赤枠に書かれた文字がある。台町(だいまち)すなわち、神奈川宿。これは、画面左の横浜開港場から海を渡って神奈川宿に向かって走っている汽車の様子だ。

この絵で注目したいのは、海を渡る線路、そして作品が生まれた年だ。

制作は1870(明治3)年。しかし新橋~横浜(桜木町)間の鉄道開通は1872(明治5)年だ。その2年前に描かれたことになる。絵師の想像だからか? いや、必ずしもそれだけではない。そこには、絵に描かれた海上の線路も関係してくる。
 
 
 

文明開化の大発想「海の上を走らせろ!」


 
次の絵は、慶応4年/明治元年、まさに江戸から明治へと時代が移る1868年に描かれたものだ。開港後の鉄道敷設以前のミナト横浜である。
 


橋本玉蘭斎作『大港横浜之図』1868年(横浜市中央図書館所蔵)

 
画面右奥に大きく食い込むように描かれた入江は平沼湾。1869(明治2)年に新政府が東京~横浜間の鉄道建設を決定し、そのルートを検討するうえで、この平沼湾が大きな障害の一つとなった。なぜなら、この湾に沿って鉄路を敷くと、とんでもなくルートが大回りになるからだ。
そこで思いついたのが、「海に線路を通してルートを短縮しちゃおう」という大胆な計画だった。さすが265年続いた江戸幕府をひっくり返した明治維新の政治家たちだ。

1870(明治3)年10月から、平沼湾を埋め立てて海上に築堤する工事が始まった。
下の絵は、ちょうどその同年同月に出版された歴史地図だ。
 


橋本玉蘭斎作『横浜明細之全図』1870年(横浜市中央図書館所蔵)

 
画面右下隅から縦に海上を渡る道が見える。これは築堤工事の途上を描いたものだ。
この絵と下の絵を見くらべてみよう。
 


橋本玉蘭斎作『横浜明細之全図』1873年(横浜市中央図書館所蔵)

 
色調はちがうものの構図は同じ。一見同じ作品の別刷りかと見まがうほどだが、こちらは3年後の1873(明治6)年10月に描かれたものだ。すでに前年に鉄道は開通している。右隅をよく見ると、1870(明治3)年の絵ではただの橋のようだった海上の道に線路が描かれているのがわかる。

全長約1.4kmの海上築堤自体が前代未聞の大工事であったわけだが、事はそれだけでは済まなかった。品川方面から続く線路をこの築堤につなげるには、神奈川宿の権現山と本覺寺をつなぐ山を削って切り通しの道を造らなければならなかったからだ。
 


そして生まれたのがこの鉄路というわけだ

 
もちろん当時はこんなに線路の幅があったわけではないだろう。

平沼湾の突貫工事の築堤埋め立ては1870(明治3)年いっぱいに完成。そして長さ約240メートルの切り通しは同年11月に着工し、翌1871(明治4)年6月に竣工した。

また、切り通しを造る際に必要だったのが、切り通しで分断してしまう東海道を鉄路の上に渡らせる橋の工事だった。その橋こそが、青木橋跨線橋である。前記の通り神奈川区ホームページによれば、橋は切り通し工事中の1870(明治3)年に完成している。

初代青木橋の長さは約5.8メートル。幅約7.2メートル。橋の長さから、当時の切り通しの鉄路の幅も想像できるだろう。決して大きくはない。
 


もちろん当時は橋の向こうにビルもない

 
なにしろ、そこは海だったのだから。そのことが、リアルにわかる地図がある。
 


内務省地理局測量課編『横浜実測図』1881年(横浜市中央図書館所蔵)

 
鉄路が敷かれて10年ほど経った1881(明治14)年2月に作成された実測図だ。地図の左下方に築堤と平沼の内湾が見える。築堤の北側もまた海。

実測図を見ると、築堤はかなり太い。なんとその横幅は約75メートルもあった。うち鉄道は9メートル、道路が11メートル。残りの約55メートルは、この築堤工事を請け負った木材商・高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)に無料で貸し付けられたのだという。そしてこの一帯が、やがて高島町となるわけだ。

とにもかくにも、海上築堤と切り通しと跨線橋は、3つで1つのセットになった工事だったことがわかる。