磯子区の八幡橋八幡神社にある球体の正体とは?
ココがキニナル!
中区原町の八幡橋附近の八幡神社にある丸い球状のものは、何どうしてかざってあるの?(ひげさん、濱のリリーさん、sakuraさん)
はまれぽ調査結果!
ブイ(浮標)、機雷、絹織物の洗濯機などの説があったが、正確な答えは見つからず。今回の調査では、ブイという説が有力だった印象!
ライター:田中 大輔
歴史のプロに聞いてみる
ここからは専門家に尋ねたり、図書館で資料を探す地道な調査。
まずは、神奈川県立歴史博物館に写真や宮司さんの話を伝え、知っていることがないか聞いてみた。
神奈川県立歴史博物館には電話とメールで取材対応をしてもらった
ところが、返ってきたのは「こちらでは分からない」という答え。
しかし、有吉忠一の名前が刻されていることから、「横浜市史資料室に有吉氏に詳しい方がいる」というヒントももらうことができた。
というわけで、今度は市史資料室へ。
対応してくれた研究員の松本洋幸さんは、有吉について調べた際に現地にも行ったことがあるそうだが、「あれがなにかは分からないです」。
“御大典記念”の文字の横に“正三位勲二等有吉忠一”とある
有吉の名前が入ってはいるが、彼や市が直接関与したというよりも、一般の有志が造った記念碑に、依頼を受けて一筆入れただけではないかという見解を聞かせてくれた。
図書館で資料と格闘
残念ながら、神奈川県立歴史博物館でも市史資料室でもハッキリした答えを見つけることはできなかった。
完全にベールで覆われた存在、というよりは、あの記念碑を専門的に調べていない、というのことのようだ。
ということは、資料を探せば答えに近づける可能性は残っている。
図書館に向かい、磯子区の歴史を記した本を中心に調査を続行してみた。
中央図書館で資料を探す
区制50周年記念事業として作られた「磯子の史話」では、八幡橋の八幡神社を滝頭八幡神社として紹介している。
神社の縁起や歴史について書かれているのだが、その中であの記念碑に関する記述を見つけることができた。
それによると“昭和の代になり、五年六月には、御大典記念碑が建ちました”。
それ以上の情報はなかったが、具体的な建設時期が書かれていたのだ。
1930(昭和5)年に建てられたという記述が見つかった!
今度はこれを元に、当時の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)を探ってみた。
しかし、残念ながら、見落としがない限りは、この記念碑に関する記事は発見できず。
続いて手に取ったのは、「磯子のれきし」(磯子小学校百年祭実行委員会)という本。
この本でも、八幡神社について2ページだけだが、紹介がある。
その項目の最後の最後に、“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”という文を発見。
球体の正体はブイ!?
まさしくこれだ! というところではあるのだが、なぜ天皇陛下即位の記念という形でブイを奉納したのかには触れられていない。疑問は残ったままで、スッキリ解決というところまでは至ることができなかった
取材を終えて
今回の調査では、残念ながらここまでしかたどり着くことができなかった。
唯一、資料として登場したのはブイ説で、水運が盛んだった掘割川のすぐそばということも合わせて考えると、これが一番有力な印象ではある。
でも、時代に多少の差はあれど、よく似た機雷が存在したのもキニナルところだ。
果たしてブイなのか。それとも・・・
昭和初期という、歴史的に見ればそれほど古いものではないのに、なかなか正体のつかめない不思議な球体。その姿形と相まって、なんともミステリアスな存在であった。
その謎を解くべく、今後も引き続き調べていこうと思う。
―終わり―
00さん
2017年01月09日 01時59分
記事の筆者の方は「機雷は時代が違う」とお考えのようですが、昭和の初め頃に、陸海軍が無償で、民間に教育目的として機雷や砲弾などを「廃兵器」としてさかんに下付していたことがあるそうです。そして、それらが慰霊や軍事高揚の目的で神社に置かれることもよくあったようです。ですので、機雷と考えると昭和5年は時期としてはピッタリかと思います。http://ki43.on.coocan.jp/kirai/kirai.html※上記リンクは検索して見つけたもので私のページではありませんが、参考になるかと思い、リンクさせていただきました。
テル3さん
2016年12月17日 14時50分
原町は、磯子区ですよΣ(-᷅_-᷄๑)
TYHOPYさん
2016年12月16日 23時49分
これは近くに有った水上飛行場(根岸飛行場)で飛行艇を係留する為に使われていたブイだという事を以前にどこかのサイトで見たのですが、どこのサイトかは失念しました。 おそらく戦後に飛行場が廃止になった時に元々有った記念碑の上に乗っけたのではないかと思われます。その飛行場にあった大日本航空横浜水上飛行場の当時の関係者の方に当たって見たらはっきりするかも知れません。