山手本通りから降りる「階段坂」の手すりにならぶ謎の金属の輪っかは何のためなのか徹底調査!
ココがキニナル!
フェリス坂(西野坂)のすぐ南側の階段の手すりにかなり大きな輪っかが並んでいます。これって単なるデザイン?それとも使用目的があるの?流し素麺ができそう(ジャン・ヨコハマさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
階段坂の名前と手すりが設置されたおおよその時期まではわかったが、手すりの上に立つ輪の存在理由は誰の記憶にもどこの記録にも残っていなかった
ライター:永田 ミナミ
街ヘ出ずに書をひらく
ひとまず作戦変更である。街ヘ出てばかりいるのではなく、書を紐解くことにしようと図書館へ向かった。
横浜市中央図書館で山手に関する本を集めて片っ端から目を通していくと、代官坂や谷戸坂、汐汲(しおくみ)坂、フェリス坂など名坂が多い山手本通りの坂を取り上げたものは多い。
市内屈指の名階段坂である西野坂、通称フェリス坂
しかし、フェリス坂についての記述はあっても、名もない鉄輪坂について触れたものはなかなかない。
何といっても、山手本通りから鉄輪坂へと入る路地の真横に立つ案内板でも
「現在地」と書かれているのに路地と鉄輪坂は記載されていないほどなのだ
しかし、いくつかの資料を読んでいくと、鉄輪坂の下の坂が「土方坂(どかたざか)」と呼ばれていたらしいことが分かってきた。
この階段と斜面の折衷坂をのぼった左手に鉄輪坂があり、それを過ぎて
中央大学横浜山手中学・高校跡地とぶつかって行き止まるこの坂が土方坂
場所はこの水色の部分である
少しずつ核心に近づいている気配と期待に胸を膨らませながら、さらに資料に目を通していくと、鉄輪坂についてかなり深く掘り下げた資料を見つけることができた。
『ペリー来航〜横浜元町一四〇年史』である
まずは「土方坂」については、「西野坂の上り口から右へ折れる坂道を土方坂という。万延元年(=1860年※編集部注)、幕府が元町に掘割を設ける際、地方から多くの土方(三千人といわれる ※編集部注:土方=建設労働者)を集め、その一部をこの坂の両側に住まわせたところからその名がついた」という。
『横浜村并近傍之図(よこはまむらならびにきんぼうのず)(横浜市中央図書館提供)』の左下部分を拡大してみると
*クリックして拡大
赤い文字で「万延元年掘割」とある。この掘割は現在の中村川である
記述には続きがあり、「かつてこの坂の上に元街小学校があったころ、子どもたちが通う道の名として土方坂は相応しくないと、時の校長だった山内鶴吉が学校の奨励会長をしていた飯泉(=いいずみ※編集部注)金次郎の協力を得て坂の途中につつじを植え、『つつじ坂』と呼ばせたことがあった。その後、学校が現在地に移転してからは『つつじ坂』の名も自然消滅した。いまではこの坂を土方坂と呼ぶ人もほとんどいない」となっている。
かつてこの坂には、朝夕に子どもたちの元気な声が溢れていたのだろう
さて、注目すべき記述はそのあとである。
「坂は横浜山手女子学園の裏門に突き当たって行き止まりで、山手に抜けるには門の手前途中にある左側の階段を上ることになる。この階段はいまでこそ整備されて歩きよくなっているが、以前は草茫々(ぼうぼう※編集部注)の細い坂道で、ヘビが多く生息していたところから近所の人たちは蛇坂と呼んでいた。」
Aさんの話のとおり「以前は草茫々の細い坂道」であり、いままで仮称で呼んでいた坂の名前が「蛇坂」だったということが分かったのである。鉄輪坂あらため蛇坂について、ここまで詳細な記述はほかには見つからなかった。
取材中も蛇は見かけなかったがトカゲはあちこちに現れた
ほかにも巻末の年表には「1987(昭和62)年 崖崩れ防止工事、元町5丁目B地区、3丁目地区完了。」という記述があった。
そしてそれは神奈川県横浜川崎治水事務所の回答とぴたりと一致する
ちなみに「2000(平成12)年6月14日 フェリス坂に手摺を設置」という記述も見つけたが、蛇坂については手すりに関する記述はない。
この手すりは14年前に設置されたものだった
元町自治運営会へ
土方坂の記載があった地図が添付されていた『横濱元町古今史点描』と、蛇坂について記述があった『ペリー来航~横浜元町一四〇年史』に共通するのは、横浜元町資料館。そして横浜元町資料館は「元町自治運営会内」とある。
いよいよ最後の手がかりとなったようだ。そしてこの手がかりが最も手すりに近いように思われる。長い旅の果てにはどんな結末が待っているのか、祈りに近い気持ちで問い合わせた。
冬から追い続けてきたこの輪の正体をつかむことはできるのか
後日、『横濱元町古今史点描』の著者であり、『ペリー来航〜横浜元町一四〇年史』を編纂した「元町の歴史編纂委員会」の1人でもある大澤秀人さんから回答があった。いろいろな資料を調べ、また坂の近隣にお住まいの方にも話を聞いてくださったが、「階段の手すりの輪」については分からなかったという。
ただ、大澤さんが近隣の方から聞いた話のなかに、なかなか説得力のあるものがあった。それは「かつては通学路として子どもたちが多く通っていたので、手すりで滑って遊ぶのを防止するために取りつけたのではないか」というものだ。
なるほど、滑って遊ぼうとするには抜群の障害物だ
垂直に立つ輪は別の遊びを誘発しそうでもあるが、急階段の手すりで滑って遊んでいた子ども急カーブから落ちて怪我をする、というような大きな事故を防止するには適切な方法かもしれない。
そう考えると、装飾的な階段にしようという意図がそれほど感じられない手すりと輪の形状のシンプルさにも納得がいく。
それにしても、この階段のためだけにこれだけの数の輪をつくったのだろうか。数えてみると、階段をのぼるときの右側の手すりには49個、左側の手すりには46個、合計95個の輪が立っている。
完成当時とはだいぶ様子が変わっているとしても、階段の雰囲気から考えると、95個の輪をこの階段のためにつくったと考えるよりも、どこかでつくっていた輪が余っていたか、すでにできていた製造ラインを利用して余分につくるかして、それを転用したと考えるほうがむしろ自然なような気もしてくる。と考えていた頭のなかを、公園の遊具の吊り輪がよぎった。
そこで、試しに『横浜市の公園(平成8年4月1日現在)』で、Aさんの話をもとに38年前の1976(昭和51)年前後に中区に作られた公園を調べてみた。すると、以下の4つの公園が該当した。
1973(昭和48)年10月15日開園 蓑沢(みのさわ)公園(蓑沢13-113)
1974(昭和49)年12月14日開園 富士見川公園(末吉町4-91-6)
1976(昭和51)年3月20日開園 柏葉公園(柏葉89-1)
1977(昭和52)年9月24日開園 根岸森林公園(根岸台13-113)
このなかに横浜市内の公園が網羅されている
『横浜市の公園』には、各公園にある設備が遊具も含めて記載されているが、蓑沢公園と富士見川公園の遊具は「ブラ、すべ、砂場(ブランコ、すべり台、砂場)」だけである。「吊り輪」は個別の記載がないので、可能性があるとすれば柏葉公園、根岸森林公園の「コン(コンビネーション)」という複合遊具に吊り輪がふくまれているかどうかだろう。
ひとまず中央図書館から歩いていける富士見川公園に行ってみた
最近のすべり台はコンビネーションが主流のようだが吊り輪はなかった
そこで根岸森林公園にも柏葉公園に問い合わせてみたが、両公園とも、現在においても過去においても、吊り輪が設置されていたことはなかったということで、ふと思いついた仮説も一瞬で吹き飛んでしまった。
とはいえ、吊り輪があることが分かった公園にいくつか行ってみた。
世田谷区希望丘公園の吊り輪は階段の輪よりも直径が大きかった
東京都文京区礫川(れきせん)公園の吊り輪も直径が大きくそして細かった
中央区日比谷公園の吊り輪は2種類。こちらはサイズはちょうどいいが太く
こちらの吊り輪は太さはちょうどよかったが直径が少し大きい
実際に見てみると、子供のころに見た記憶のなかの吊り輪より大きく細く感じられるものが多かった。大きさや太さはいくつか種類がありそうだが、ある企業が製造している吊り輪の図面では直径は22㎝となっていた。
時は流れてどの吊り輪も新しいものに取り替えられていて、分厚い錆に覆われざらざらした焦茶色の吊り輪はもうあまり残っていないようだ。
ちなみに蛇坂の手すりの輪は、外径13.2㎝、内径9.8㎝だった
計測に戻った日には鬱蒼とした草は刈り取られていて、季節は巡っていた
もちろん中区以外の市内で、ほかに38年前に吊り輪が設置されていた公園があった可能性は考えられる。ただ、近年の公園遊具の安全性を見直す動きから吊り輪は減少の一途をたどっているため、昔はあっても今はないということもある。
どれくらい減っているかというと、2010(平成22)年度の1年間に実施された点検で安全確保措置が必要となった要措置遊具のうち、吊り輪はもともと447と設置数が、ずば抜けて少ない(踏み板式ぶらんこは6万9910個)のに撤去の割合が32.4%と最も高かった。また、吊り輪は新規設置数の減少率も2番目に低かった。
つまり、最近は1年間で3割以上の吊り輪が公園から消え、新設数も減り続けていることになる。この数字から考えても、思いつきの仮説をもとに吊り輪を求めて探しまわるのは、逃げ水を追うようなことになりそうだ。
取材を終えて
横浜市役所、中区役所、中区土木事務所、神奈川県横浜川崎治水事務所、フェリス女学院、山手まちづくり協定運営委員会、横浜市都市整備局都市デザイン室、元町自治運営会、資料、近隣にお住まいの方、坂を通りがかった方の、どこにも記録が残っていない誰も知らない階段の輪。
手すりなのにまさかこんなにつかみ所がないとは
遊具ではなくこんな感じの使われ方をするための輪だった可能性もあるか
まさか蛇坂だったからといって大蛇の通り道というわけでもあるまいし(記者画)
設置するときに運びやすいように把手つきにしたなんてこともまあないか
手がかりのないただそこにある輪を見ていると、どこまでも想像はふくらむが、ひとまず今回の調査はこのあたりが潮時のように思われる。
残念ながら、この半年あまりの間に手繰り寄せた糸はすべて切れていた。しかし、もしこの階段と同じような手すりや、同じように鉄の輪が少し不思議な感じに取りつけられている場所を知っているという情報があれば、またそこから輪が広がっていくかもしれない。
そういえばあそこに奇妙な輪があるぞ、と思いあたる方は、編集部までご一報ください。
―終わり―
参考文献
『ペリー来航〜横浜元町一四〇年史』元町の歴史編纂委員会編/横浜元町資料館/2002
『横濱元町古今史点描』大澤秀人著/「横濱元町古今史点描」編集委員会編/横浜元町資料館/2008
『横浜・中区史』中区制五〇周年記念事業実行委員会編/中区制五〇周年記念事業実行委員会/1985
『横浜市の公園 平成8年4月1日現在』横浜市緑政局/1996
『都市公園における遊具の安全管理に関する調査の集計概要について』国土交通省/2012
TAKO3さん
2014年10月19日 20時33分
これだけ調べてもわからないことってあるんですね…。行政も、あっちにきいてみたら?みたいな無責任なたらいまわしではなく、もうちょっと親切でもいいと思うな。あと、文献に坂の名前が残っているなら、今からでも案内板につけたして欲しいですね。
horryさん
2014年10月17日 00時25分
これ、やっぱり滑り降り防止の為じゃないかな。古い役所やデパートの屋内階段なんかにも装飾を兼ねて付いていたりするよね。
都筑のふくちゃんさん
2014年10月16日 22時52分
ベンチに深夜、人が寝ないために、ベンチに小さな柵おわざと作ることが有りますが、このレポートを読んで、それを思いだしました。