戦争とともに幻に。根岸競馬場内にひっそりと存在した旧海軍用の印刷会社「文寿堂」の歴史を教えて!
ココがキニナル!
中区根岸台の横浜競馬場跡のスタンド下に文寿堂という印刷会社があり、日本軍の重要な印刷機関だったそう。また近くの簑沢地区は、文寿堂で働く人の住宅だったそう。当時の状況を取材して!(tokuさん)
はまれぽ調査結果!
文寿堂は1880年創業。当時の横浜を代表する企業で1943年から日本海軍の印刷物を扱い根岸競馬場で営業。簑沢台には従業員の住居もあった。
ライター:三輪 大輔
文寿堂のその後
終戦後、根岸競馬場は米第8軍の管理下入った。戦禍の中、ほとんど無傷の状態であった文寿堂はそのまま営業を続け、アメリカ陸軍のための地図とパンフレットを印刷する工場となって再出発する。
戦後、星条旗新聞に掲載された競馬場内の工場の様子
また、戦時下に上質の印刷用紙を備蓄していた文寿堂は、戦後の活字ブームの流れにも乗った。戦時統制下で大衆が活字に飢えていたため、刷れば何でも売れていた時代である。戦火で印刷用紙が焼かれたほかの印刷所が操業できない中、文寿堂は岩波文庫や新潮社の仕事を受け、千数百名の従業員が働く横浜の花形企業にまでになったという。
1947(昭和22)年には、横浜で開かれた女子野球の大会で文寿堂チームが優勝している。この大会には6チームが参加しており、その中には日産自動車の女子チームもあったそうだ。
女子野球大会で優勝した文寿堂チーム(資料提供:横浜市史資料室)
しかし、その栄華も長くは続かなかった。終戦後「隠匿物質摘発」という旧日本軍関係の物資を隠匿している者の摘発が実施される。そして文寿堂の印刷用紙が、この隠匿物質に認定されたのだ。
その後の転落は早かった。たちまち窮地に追い込まれた文寿堂は、給与の遅配、欠配も続き、経営的に行き詰りを見せる。そして1950(昭和25)年に倒産し、70年にわたる歴史に幕を下ろした。
取材を終えて
書籍の情報を参考に、実際に現地で「文寿堂で働いていた人」が住んでいた場所の特定を行ったが、その中で歴史は人の心や記憶の中にあるということを感じた。さまざまな感情を伴うからこそ、ドラマのあるストーリーが描かれ、痛みや喜びも共有することができるのだろう。
今回、どうにかして文寿堂で働いていた人に会えないか試みたが、その機会を遂に得ることができなかった。70年と言えば、かなりの老舗企業であり、そこには多くのドラマがあったはずだ。栄華を極め、やがて瓦解していったその歴史の証言を直接聞けなかったことが、残念である。
―終わり―
参考文献
『根岸の森の物語』(かなしんブックス)
『日本競馬史』(日本中央競馬会)
『今日を築くまで : 立志奮闘伝 』(東海出版社, 1940)
『印刷雑誌(文寿堂の思い出)』(印刷学会出版部)
よこはまのみつるダイヤさん
2016年02月22日 22時24分
鶴見YOUTV(ヨコハマミストリー)と言う番組で、横浜に関する歴史的な特集を組んで再放送を繰り返して毎日放送しています、その中に2008年製作で根岸競馬場の事を特集しています、印刷工場で働いていた人や元競馬騎手も登場しています、更に1等馬見所内でのリポートも行っています、該当地区の方には見れないのが残念です。
ももたろうさん
2015年02月20日 12時19分
私や伯母は「文寿堂」の付近に住み、父母や祖母伯母たちはその付近の会社で働いていて、分寿堂に従事していた家族とお付き合いしていました。でも両親や伯母たちもすでに存命しておりません。父から印刷会社だったということしか聞いておりません。レポートを涙をためながら読みました。蓑沢台という地名も初めて聞きました。小さいころから「蓑沢ブンジドー」と発音し、何のことだろうと不思議でした。三輪さん、大変だったでしょう。レポートご苦労様でした。
2323さん
2015年02月19日 17時34分
文寿堂さんは、戦前、現在の蒔田中学校の辺りに本社が有ったと聞いたことがあります。残念ながら、お話しをして下さった方は逝去されてます。