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岸根公園は、死体置き場だった?

ココがキニナル!

岸根公園は、戦時中は死体置き場だった?(doramucanさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

朝鮮戦争とベトナム戦争時に米軍の基地があり、1966年から病院もあった。国内に死体処理施設はあったとされるが、岸根がそうであった確証はない。

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ライター:吉岡 まちこ

沖縄につぐGHQ接収の面積



港北区と神奈川区のほぼ境、六角橋にも近い岸根公園。なごやかな桜の名所にもなっているこの場所が今の姿になったのは平成元年のことだ。
 


週末は家族連れでにぎわう岸根公園


1945(昭和20)年、GHQに接収されてから横浜は進駐軍の本拠地になった。占領軍40万人うち10万人が横浜に駐留していたという。

旧日本軍の軍事基地や港湾施設はそのまま接収され、戦災を免れた山手地区や焼け残った市街地、企業ビル、官公庁、学校、横浜公園平和球場(横浜スタジアムの前身)など広範囲が米軍のものになった。空襲はあたかも占領後の活用を意識したかのようだったとも言われている。
 


写真に見えるほぼ全域が接収され有刺鉄線で阻まれた。昭和25年
(写真提供/横浜市中央図書館)


1952(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約によりGHQの支配が解かれ、大さん橋、横浜税関ビルなど、市の中心街は接収解除になった。しかしアメリカは極東の防衛のため軍事施設の存続利用を希望。日本政府は人口の少ない周辺部に代替えの基地を用意することになった。岸根はその一つに選ばれたのだ。
 


旧日本軍の基地だった横須賀もそのまま接収された
(写真提供/「ぶらり東京探訪」)




朝鮮戦争時、米軍の兵舎となった岸根公園



地元港北区の人から「接収時代、岸根公園近くの農地に米軍のヘリが墜落したことがある」という噂話を聞き、この公園の稀有な歴史に興味を持ったという大倉精神文化研究所の平井誠二研究部長にお話しを伺いに行った。
 


大倉山の坂の上にある大倉山記念館
 

「大倉精神文化研究所」はその中に。平井誠二研究部長


「岸根公園の歴史について書かれた本はなく、実に複雑なんです」と平井さん。平井さんの論文で時を追ってみる。

あまり知られていないが太平洋戦争以前、実は1940(昭和15)年に東京オリンピックが開催される予定があったという。
その会場として岸根のこの一帯を総合運動場にする話になっていたが、大戦へ向けた動きで開催は幻に。1941年、横浜市は防空公園に整備するため、付近の民有地14.3ha(43,000坪)を買い上げた。しかし戦況からそれも実現することはなく、戦中は北の高台に旧日本軍の高射砲陣地、つまり敵機を撃ち落とす大砲が設置されたそうだ。
 


現在の岸根公園マップ。左上の飛び出した辺りが旧・高射砲陣地
 

高射砲陣地があった少年野球場付近。当時は見晴らしも良かった?


太平洋戦争中、公園予定地は整備されることなく放置され、また空襲被害者の安置所が必要になるほど人口過密地でもなかったことから、キニナル投稿にあった「戦時中」は太平洋戦争のことではないようだ。
ではいつか。日本での戦争は終わったが、アメリカの戦争はまだまだ続いたのだ――。