花街として栄えたころの「鶴見三業地」を徹底調査!
ココがキニナル!
京急鶴見駅を出ると三業地という地名があります。ディープな飲食店が多く、今もその面影がかすかに感じられます。花街として栄えた頃の鶴見三業地について調べてくれませんか?(ryoryoさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
鶴見三業地は、芸者衆が行き交う細い路地が入り組み、見越しの松がのぞく黒板塀に囲まれた料理屋から三味線の音が聞こえてくる情緒あるところだった!
ライター:吉田 忍
料理屋、芸妓屋(げいぎや)、待合(まちあい)の三つを三業(さんぎょう)と呼ぶ。これらの営業には許可が必要で、この三業を営む者が三業組合を組織していたので、このような業種が集まっている地域を特別な遊興地として三業地と呼んだ。
ここで言う料理屋は、芸妓(芸者)を呼ぶような料理屋、芸妓屋とは芸妓を抱える店、一般に置屋(おきや)と言う。また、このような場所での待合とは、芸妓を呼んで遊ぶところだが、料理屋と混在する場合、料理屋で芸者遊びをした後にアフター的に使われた。
鶴見には、正式な地名ではないが、三業地という一角が残っている。京急鶴見駅前の旧東海道から、第一京浜国道に至るあたりの飲食街である。
「三業共同ビル」のように、三業地の名前が今でも残っている
芸妓がいて、料理屋があった華やかなりしころの鶴見三業地。どんな様子だったのだろう?
横浜市史資料室や鶴見区役所などに問い合わせをしたが、残念ながら三業地に関する資料や写真などを見つけることはできなかった。
こうなると、はまれぽ得意の突撃調査しか方法はない。当時のことを知る方にお話を聞こうと現地へ向かった。
鶴見三業地へ
京急鶴見駅を東側に出ると、そこは旧東海道。その目の前あたりからすぐに三業地と呼ばれる地域になる。
京急駅前は旧東海道。少し先に江戸時代の茶屋(さぼてん)だったパン屋がある
この先が三業地
三業地を歩いていると、三業地会加盟店という札が貼ってある店があった。これはつまり、今でも三業地会という組合があるということか?
三業地会加盟店という札が貼ってある店。話を聞きたいが昼間は営業していない
ところが、三業地会の組合について、いろいろ調べてみたがその存在を見つけることができなかった。
そこで、三業地の近くにある鶴見銀座商店街協同組合を訪ねることに。これが大正解。ここから芋づる式に奇跡的な人々との出会いが始まる。
伺ったのは、鶴見銀座商店街協同組合事務長の大島さん。
「私はここに来てまだ2年なので昔の事は知らないんですが、中町の方が書かれた本があって、その中に三業地のことも書いてありますよ」と冊子を見せていただいた。
「中町の昔と今」著者:細谷 薫 (非売品)
冊子には、大正の始め、京浜工業地帯の急速な発展に伴いこの場所に三業地が形成され、1965(昭和40)年ごろから徐々に料理屋や芸妓屋が姿を消すまでが記されている。
細谷さんにお話を伺いたいと言うと、大島さんはすぐに電話で確認して、細谷さん宅まで案内していただいた。
細谷薫さんは1930(昭和5)年に鶴見で生まれ、ずっとここで暮らしてきた
「10年ほど前まで三業地会の会長だったんですよ」と細谷さん。な・なんと、探し求めていた三業地会の元会長さんだった。
「でも、今年の3月に解散したんです。どんどん店が減ってしまって・・・」