解体予定の川崎市庁舎、大空襲を生きのびた時計塔の内部に潜入!
ココがキニナル!
川崎市役所の塔に戦時中の弾痕が残っていると昔聞いた記憶が・・・ホントかキニナル。(m_kさん)
はまれぽ調査結果!
川崎大空襲を生き延びた川崎市役所本庁舎には、弾痕があったようだが現在は目視不可能。秋以降、解体工事開始後に調査が進められる予定。
ライター:岡田 幸子
1938(昭和13)年に建設された川崎市役所の本庁舎。築70年以上を超えて老朽化が進み、耐震性能も災害時の拠点としては十分ではないとのことから建て替え計画が進行している。
2016年秋以降の取り壊しを視野に、同年2月5日をもって本庁舎は閉鎖。
解体工事の開始を待つばかりの現状だ
そんな川崎市役所本庁舎のシンボルが、白い壁の4面にアナログ時計が設置された時計塔。投稿によるとこの白亜の塔に戦時下に受けた弾痕が残っているという。
地上約36メートルの塔は8階建てに相当する
川崎大空襲を生き抜いた川崎市役所本庁舎
第二次世界大戦の最中、1945(昭和20)年4月15日から翌未明にかけて、川崎市は大空襲に見舞われた。『神奈川県の戦争遺跡』によると、約200機にもおよぶ米軍の長距離爆撃機・B29が飛来し、9000発もの焼夷弾と1340発の爆弾を投下したという。
この川崎大空襲により、現在のJR川崎駅から東側の一帯は、市役所と水道部庁舎を残して、臨海工業地域に至るまで一面の焼け野原になってしまった。
左奥に焼け残った市役所本庁舎と時計塔が見える(川崎市平和館提供)
市役所と道を隔てた向かい側にある水道部庁舎が焼け残った背景には、空襲警報の発令により駆けつけた、森田宗作(もりた・しゅうさく)第2助役以下30数名の市役所職員による必死の消火活動があったという。
この日の空襲での死者数は明確でないが、川崎空襲全体の死者は約1000人、重軽傷者約1万5000人のうち、大半がこの夜の空襲によるものと考えられている。全半焼家屋3万3361戸、全半焼工場は287戸、罹災者は10万人を超えた。
文字通り川崎市が焼き尽くされたのだ(川崎市平和館提供)
この苛烈な川崎大空襲を市役所本庁舎の時計塔の上から目撃した人物がいる。当時、川崎防空監視哨隊員だった星野正孝(ほしの・まさたか)さんだ。その夜、星野さんがいたという時計塔、市職員の案内で特別にのぼらせていただいた。
どんどん狭く
急になる階段を
のぼりきった先にある
1坪ちょっとのスペースに出た
1945年4月15日午前7時、星野さんは明朝まで24時間の勤務に就いたという。時計塔の上で立哨し、いち早く敵機の飛来を発見、状況を県庁の本部に連絡することがその任務だ。『神奈川県の戦争遺跡』から星野さんの体験を表す部分を引いてみよう。
「午後10時3分に空襲警報が発令され、10分ぐらいたってからでした。灯火管制下の真っ暗な闇のかなたに、不気味な爆音が聞こえてきました。防空部隊の探照灯の光が盛んに行き交います。その光のなかに、2機の敵機が発見されました。監視哨から南東の方角、高度は約1000メートル、いずれもB29でした。突然、迎え撃つ高射砲弾の炸裂音が響きます。しかし、敵機は悠然と、北西の闇のなかに消え去りました。『私たちが敵機を発見したのはこの時だけ、しかも高射砲の音を聞いたのもこの時だけだった。それはほんの一瞬でもあり、長い時間でもあった』と星野さんは回想します。(川崎市教育文化会館編『シャベルⅡ』)」と、同書には記されている。
灯火管制による暗闇のなか
ここで焼かれてゆく街を見守ったのか・・・
これらから、1945年4月15日、川崎市役所とその周辺が想像を絶する火炎と爆風に包まれたことが分かる。
いまはめざましく発展した周辺に驚くばかりだ
時計塔の弾痕は残っているのか?
川崎市役所本庁舎が苛烈な空襲を生き延びた建物であることは分かった。それでは、投稿にある「時計塔の弾痕」は実際に残されているのだろうか?
特別に許可を得て解体前の本庁舎に入らせていただいた
川崎市 総務企画局 本庁舎等建替準備室の和田忠也(わだ・ただや)室長に話をうかがう。
のちにその多才ぶりも知られるところとなる和田室長
「現在、本庁舎時計塔の壁面にそれらしき弾痕は認められません。しかし、防空監視哨隊員として空襲を目撃した星野正孝さんと、戦後、本庁舎4階部分の増築時に設計を手がけた元川崎市建築曲調の原壽幸(はら・としゆき)さんの両名と先日お話しする機会があり、両名とも『時計塔北側の壁面に弾痕があり、タイルが破損していた』とおっしゃっていました。両名とも同じ場所を指していたので、信ぴょう性は高いと思います」
屋上から弾痕があったとされる北側の壁を確認
現状それらしき傷は見当たらない
川崎市役所本庁舎では昭和50年代に外壁タイルの張り替えを行ったと記録されている。和田室長によると、「現存のタイルは張り替え後のものなので、張り替えの際に時計塔にあった弾痕も隠されてしまったとも考えられます」ということだ。
本庁舎の完成予想図。当初は3階建て(一部2階建て)だった(川崎市本庁舎建替準備室提供)
弾痕が当時壁表面を覆っていたタイルのみを傷つけた浅いものであったなら、タイルを張り替えた時点でその痕跡はすでに失われてしまったことになる。しかし、タイルを貫通し、躯体にもおよぶ深い傷であったなら、表面タイルを取り除くことで弾痕が再び表れる可能性もある。
現状に比べて、時計塔の高さがより際立っていた(川崎市本庁舎建替準備室提供)
「今秋以降の解体工事で明らかになるでしょう。タイルを剥がした段階で、改めて調査する予定です。その結果は記録として開示できるようにしたいと考えています」