横浜生まれのアナウンサー 渡辺真理さんを徹底解剖!
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横浜生まれのアナウンサー 渡辺真理さんを徹底解剖!
ライター:松崎 辰彦
横浜市中区山手町。外国人墓地やいくつもの洋館が並ぶ山手本通りの一画にあるのは洋菓子店「えの木てい」。1927(昭和2)年に日本人建築家・朝香吉蔵(あさか・きちぞう)氏が設計した建物で、当初はアメリカ人検事の住居であったが、現在は洋菓子店として人々を招いている。
洋菓子店「えの木てい」
この横浜の香り漂う館で今回、お話を聞くのはアナウンサーの渡辺真理(わたなべ・まり)さん。稀有(けう)な美貌と優れた話術で人々を魅了してきた渡辺さんは、横浜生まれの横浜育ち。この「えの木てい」とは、お父様の代から家族ぐるみの付き合い。
そんな渡辺さんに、その生い立ちやアナウンサーという職業、将来の展望そして横浜への思いを聞いた。
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3代にわたる生粋のハマっ子
──渡辺さんは横浜生まれの横浜育ちとのことですが、生い立ちなどについてお教えいただけますか?
祖父母の代から横浜に住み、わたしで3代目になります。大正生まれの父は3年前に他界しましたが、中区尾上町で生まれて本町で育ち、子どものころは開港記念会館の階段あたりで遊んでいたとか。母方は今も桜木町で石井耳鼻咽喉科という医院を営んでいます。
小学校3年生のとき父と。スイスのツェルマットという町で
両親がスキー場で出会うほどのスキー好きだったこともあり、わたしも3歳くらいから父にみっちりと鍛えられました。冬は志賀高原でスキー合宿のような日々を、夏は本牧市民プールでクロールや背泳ぎの特訓を受けて育ちました。
小学校から横浜雙葉(ふたば)学園に通い、家からはバスも含めて15分くらいでしょうか。毎日、紅蘭坂(こうらんざか)という116段(当時)ある階段を上って通ったおかげで、足腰は強くなったのじゃないかと(笑)。単調だけれど、平和で穏やかな学生生活を12年間、山手の丘の上で過ごせたことは幸せでした。
横浜の女学校「横浜雙葉学園」
校則は厳しいというより細かくて、制服のスカート丈や髪型や、元町のメインストリートは登下校では通らないなど、いろんな制約がありました。当時は「どうして?」なんて不可思議に思った校則も、今振り返ると、規制されることで育まれたり、守られたりする面があるのだなぁと理解できたりします。
そういえば当時は固定電話ですから、帰宅後に家の電話で友達と1時間以上話して親に長電話を怒られるなんてこともよくありました(笑)。
その頃から、将来どうなりたいとか夢を描くほどの高い意識は全くなくて、授業中、窓から見える海をゆっくりタンカーが通るのをボーっと眺めるのが好きな地味な子でした。
──大学は三鷹市にある国際基督教大学 (International Christian University──略称ICU)ですね。
はい。高校のときに担当だった英語の先生──とりわけ厳しいけれど素晴らしい先生でした──から、三者面談で「真理にはICUが合うと思う」とアドバイスをいただいたことがきっかけでした。見学に行ったら緑あふれる素敵なキャンパスで、ここに通いたいと直感しました。
国際基督教大学(Wikimedia Commons)
ただ祖父の代からの横浜商人の家なので、父としては経済・経営を大学で学んでほしい、けれど、わたし自身は好きなことを学ぶ4年間ならば日本文学を専攻したい、と。
父とひとり娘のわたしとの間でちょっとした経済・文化論争が起こった受験期でしたが、ICUは自由なカリキュラムで、例えば文学専攻でも経済の授業に出て単位をもらえるといったこともできたのです。そんな理由もあってICUに行きました。
アナウンサーへのきっかけは新入生への学校案内
──アナウンサーになったきっかけは?
恥ずかしい話ですが、アナウンサーを目指すなんて志もなかったのです、大学生のころは。
大学ではスキー部に入りたいと思ったのですが、そのころのICUにはスキー部がなくて。じゃあ水泳部と思ったけれど、部というよりは時間外でもプールを使用できるくらいの緩やかな集まりだったので、どこにも所属しないまま過ごしていたのですが、たまたま人手がないからと同級生の女の子に誘われてアメリカンフットボール部のマネージャーをすることになりました。
学生時代の思い出を語る
当時のICUのアメフト部は部員がオフェンス、ディフェンス合わせた22人に足りないような状態で。マネージャーの仕事としては部員集めも必須だったんですね。
勧誘をするため、新入生や留学生に学内を案内して回り、普段は通らない教務課や就職課の前を通ったのが、考えてみればアナウンサーになるきっかけでした。
ちょうどその時、就職課前のボードにNHKの「スポーツキャスター募集」という求人票が張り出されていて。木村太郎さんと宮崎緑さんがなさっていた『NC9』の後番組として始まる「ニューストゥデイ」のスポーツキャスター募集が大学に来ていたんですね。一緒に校内を案内していた先輩部員たちが「やってみたらいいじゃん!」なんて、その場のノリで。
いろんなことが重なりNHKへ足を運ぶことになった
そういえば、通学で渋谷は通り過ぎるけど、ほとんど行ったことはないし、NHKの内部を見られるなんて一生ないだろうな、くらいの気持ちで先輩マネージャーについて行きました。ただ、応募資格年齢は22歳だったのに、当時わたしは20歳で・・・何を考えてたんだか、と思います。
当然、面接官からは当惑気味に、「えーと、君は20歳ですよね? なんで来たんですか?」と、聞かれたことを覚えています。
「すみません。NHKの展示コース以外を見ることは一生ないと思ったので」と答えた記憶も。
その後、わたしが不在だった時に自宅に電話があり「即戦力にはならないけれど、いろいろ勉強してみませんか」というお誘いがあったと母から聞きました。このようなご縁があって、修行の身として大学卒業までの2年間、通わせていただきました。
学生時代から現場で経験を積んだ
NHKに通い出してからしばらく経ったころに、BS放送が始まりました。コンテンツがまだ充分ではない時期で、カナダで開催されるトロントサミットを朝晩4時間ずつくらい放送するという番組があり、サブキャスターにという声をかけていただきました。
その話が持ち上がった時、「いやいや、ズブの素人を甲子園のマウンドに立たせるようなものだから」「いや、度胸だけはありそうだから大丈夫だろう」なんて、ありがたいことに、わたしごときのために、というか番組のためですが、議論があった結果、初めてテレビ画面に出ることになりました。
その後も朝の情報番組でのリポートや、放送記念日の特番では飛行船からのリポートなど、たくさんの貴重な機会をいただきました。そして、就職の時期に差しかかった時もNHKの先輩方からアドバイスをいただいて再び大学の就職課にいったところ、すでにTBSの採用が始まっていて、本当に運良くアナウンサーになることができました。