デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?前編
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デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?前編
ライター:山本航
デビュー50周年を迎えた、兄弟デュオグループのブレッド&バター。
戦後初の国民的ヒット曲と言われている『りんごの唄』が主題歌の映画『そよかぜ』の脚本家としても有名な映画監督である、岩沢庸徳(いわさわ・つねのり)を父に持つ。幼少から茅ヶ崎で育ち、茅ヶ崎の海を見守ってきた彼らが奏でるのは、まさに茅ヶ崎の海のような爽やかでロマンティックなハーモニー。長く湘南を代表するアーティストとして愛されてきたが、そのキャリアと自然な生き方から音楽業界にもファンが多い。
1969(昭和44)年にデビュー後、現在までにシングル41枚、オリジナルアルバム24枚をリリース。茅ヶ崎をベースにマイペースな活動を続け、加山雄三(かやま・ゆうぞう)とサザンオールスターズとともに、「湘南サウンド」御三家と呼ばれてきた。
70年代の活動停止中には、茅ヶ崎の仲間と手作りで「カフェ・ブレッド&バター」を開業し、多くのミュージシャンと交流を深める。
インタビュー中もさまざまなアーティストの名前があがり、日本音楽界の重鎮とのエピソードから、Suchmos(サチモス)など若者に支持される層まで幅広く語られた。そしてボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、B.B.KINGといった超大物レジェンドのビッグネームが飛び出すのは、彼らの魅力が引きつけた証。
今回は、その生い立ちから現在までを茅ヶ崎の風景の変遷とともに振り返って頂き、湘南が育んだ彼らの魅力を紐解いてみた。
ブレッド&バター
左:岩沢幸矢(いわさわ・さつや)
右:岩沢二弓(いわさわ・ふゆみ)
誕生日:1943年7月11日生まれ(幸矢さん)
1949年2月23日生まれ(二弓さん)
職業:ミュージシャン
所属:キャピタルヴィレッジ
HP:https://bread-n-butter.jp
加山雄三さんは飾らなくてバンカラな方でした
――まずお父様が東京の方で、幸矢(さつや)さんが東京生まれ。引っ越しをされて、二弓(ふゆみ)さんが横須賀生まれ。ご兄弟が大所帯になったので、茅ヶ崎に引っ越したとか。何才頃ですか?
幸矢さん(以下S)僕が2歳くらいのときに横須賀に引っ越して、幼稚園後半からは茅ヶ崎ですね。日本橋で生まれたから、小さい頃は橋の下で生まれたってよくからかわれました。
生後間もない幸矢さん(提供:岩沢幸矢さん)
――日本橋だから(笑)。普通は地方から東京に引っ越してきたらからかわれるのに、逆だったんですね。
(S)僕らは東京から引っ越してきたし、父が映画人だから、ハイカラな服を着ていたりして、雰囲気が違ったんですよね。
父・庸徳さん脚本の映画『そよかぜ』(販売元・提供:コアラブックス)
(S)茅ヶ崎の子どもたちは、農家や漁師の子とかが多かったし。方言も全然違うしね。「違かんべよー」とか。まあ、そういうのは覚えてしまったけど。でも、慣れるまではいじめられたりしましたね。
当時を振り返る幸矢さん
――神奈川県って東京の隣りなのに、独特のローカルな文化が根付いていますね。
(S)当時の茅ヶ崎は東京の人や大使館関係者の別荘がたくさんあって、その周りは農家や漁師さんも生活し、さらにはベッドタウン化で湘南から東京に通勤している人たちがいて、その3種類の生活スタイルが混在していたんです。それが混ざり合って、独特の文化が誕生したんですよね。
左から子ども時代の幸矢さんと二弓さん(提供:岩沢幸矢さん)
――今の湘南文化のルーツですね。
(S)東京から越してきた僕らには、漁師とか憧れでしたね。冬の荒々しい海に飛び込んでいく姿とか見ていると、雄々しくてかっこいいなーと思いました。無い物ねだりというか。そんな中、加山雄三さんも茅ヶ崎で育ったんです。
彼は若くして映画スターになったけど、飾らなくてバンカラな感じでした。いわゆるドカベン(大きな弁当箱)をかっ喰らっていたり、下駄で撮影に出かけたり、地元でも豪快で目立ってましたね。
南湖(なんご)海岸の漁船(所蔵・提供:茅ヶ崎市)
――もともと加山さんのお父様の上原謙(うえはら・けん)さんが有名人なので、地元では名の知れたファミリーですよね。
(S)そうですね。ほかにもうちのすぐ近所に岩倉邸(岩倉具視〈いわくら・ともみ〉の家系)があったんで、うちのオヤジとつきあいがあったりとか。
歌手の尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんは、中学の時、水泳部の先輩でした。一緒に県大会に出場しましたね。
今ものどかな上原謙通り(所蔵・提供:茅ヶ崎市)
結婚当時の父と母(提供:岩沢幸矢さん)
――岩倉家といえば、一族が経営に関わっていた湘南のシンボル的存在だった「パシフィックパーク茅ヶ崎(パシフィックホテル、1965〜1988年営業)」を思い出します。ユーミン(松任谷由実)がのちに『Hotel Pacific』という曲の歌詞をおふたりにご提供され、今でも代表曲のひとつになっている思い出のホテルです。世間一般では共同オーナーの上原謙さん、加山雄三さんのイメージも定着されていますね。サザンオールスターズもこのホテルをモチーフとしたヒット曲『HOTEL PACIFIC』を生み出し、今でも茅ヶ崎市民の脳裏に残るホテルですよね。
パシフィックホテル周辺の茅ヶ崎海岸(所蔵・提供:茅ヶ崎市)
(S)大人の社交場で、憧れだったよね。僕も学生時代はあそこでアルバイトをしてたんです。海でライフセイバーをしていたから、モテたくてプールの監視員で応募したけどもう募集はいっぱいで、ホテル客室のベッドメイキングに回されちゃったんだよな。
でもそこでの経験が充実していて、ホテルマンを目指すようになったほど楽しかった。それが元で、ニューヨークのヒルトンホテルに就職しに渡米したほどでした。
ライフセイバー姿の若き幸矢さん(提供:岩沢幸矢さん)
――その頃のパシフィックホテルは、まさに地方の海沿いにそびえ立つおしゃれな南フランス風のホテルという印象だったらしいですが、海辺はどんな雰囲気だったんですか?
(S)茅ヶ崎駅から、僕らの家があった東海岸9丁目あたりまでは徒歩で15分くらいなんですね。東京に出掛けて帰りが遅くなったときとかは母と兄弟で輪タク(自転車タクシー)に乗って帰ったんですが、窓から景色を眺めてるとなーんにもなかったです(笑)
田舎道に電信柱が立ってるだけで、そこに街灯が100メートルおきとかでポツポツと点いているだけ。夜は真っ暗。あの頃は、国道134号線もアスファルト舗装されていなかったし。
戦後の国道134号線の海岸道路(所蔵・提供:茅ヶ崎市)
――当時の江の島周辺も、写真を見ると波打ち際からすぐに国道134号線のデコボコ道と切り立った崖や山道だったようですね。
(S)国重光熙(くにしげ・みつひろ、冒険家)さんは知ってます? 彼も茅ヶ崎出身で、彼の家は駅の反対側の本村だったらしいんだけど、そこからも海岸が見えたそうで。それくらいあのあたりは何にもなかったんだよね。
国重さん著書の『ひねもす航海記』(販売元・提供:湘南未来社)
――藤沢駅からも、昔は江の島が見えたようですね。藤沢駅や辻堂駅周辺は随分と発展しましたが、茅ヶ崎駅周辺は今でものんびりしたローカル感があって、駅前をアロハと短パンとビーサンで缶ビール飲みながら歩いてるおじさんとかを普通に見かけます。
(S)もう今はどの駅前も賑やかになってるけど、例えば8月に開催された「茅ヶ崎ロックンロールセンターAGAIN」の会場だった柳島スポーツ公園や今宿のあたりは、それこそ何もないイモ畑ばっかりの田舎だったよ。あの辺に住んでた人から、芋団子をいつも食べていたって聞いたことがある(笑)
茅ヶ崎海岸の防砂林付近(所蔵・提供:茅ヶ崎市)
(S)ウチの近所も、農家や漁師が多かったし。たまたまウチのあたりが3軒くらい並んでいろんな職業だったけど。お隣りさんは竹屋さん、その隣は女優さんが住んでいたね。で、ウチが映画監督でしょ。映画人やアート系の人もかなりいましたね。
撮影中の岩沢庸徳監督(提供:岩沢幸矢さん)
――お子さんのときはどんな遊びが流行っていたんですか?
(S)俺と二弓は歳が離れてるから少々違うだろうけど、俺の頃はやっぱりベーゴマとかビー玉とかかな。そのあたりは東京とかと変わらないけど、あとはやっぱり海! 家から歩いて7〜8分で海だったから、毎日行ったね。裸足で歩いてそのまま飛び込んだり、夜も毛布を持ってそのまま明け方まで寝ちゃったり。とにかく毎日、一日中海にいたね。
学生時代を振り返る
――二弓さんも海が中心の子ども時代でしたか?
二弓さん(以下F)小学校まではね。中学からは、ローラースケートに夢中になってた。
――全国的にブームになっていた頃ですね。
(F)そうそう。茅ヶ崎はあの頃、ずーっと砂丘だったのね。一中(茅ヶ崎市立第一中学校)のあたりなんかは全部。それを整地して殖産住宅にしたり、宅地が増えたんで公道が整備されたりして、そこでローラースケートをみんなでやってた。外の世界なんか知らないから、そればっかりやってたよ。兄とは6歳離れてるから、遊びも随分違いますよ。高校は東京に通っていたんで、池袋が中心だったし。
楽しそうに当時を思い出す二弓さん