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九養塚、十三塚・・・「小机の合戦」由来の地名を探る旅

九養塚、十三塚・・・「小机の合戦」由来の地名を探る旅

ココがキニナル!

第三京浜の羽沢町付近にある「十三塚橋」の名前の由来は?また、南神大寺団地の一帯には昔合戦の死者を弔うために九つの塚が造られ「九養塚」と呼ばれていたとか。どこにあったの?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「十三塚」「九養塚」にかぎらず、神大寺から羽沢町にかけては「小机の合戦」由来と言い伝えられる地名がいくつもあった。数々の伝承の場所を求めて、貴重な資料を片手に、現地を徹底探訪!

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ライター:結城靖博


「十三塚(じゅうさんづか)」や「九養塚(きゅうようづか)」についてネットで調べると、ブログなどに戦国時代の「小机(こづくえ)の合戦」との関連を記述した記事を数多く見かける。しかも、この2つだけでなく、「道灌森(どうかんもり)」「刑付原(はつけっぱら)」「赤田谷(あかだやと)」など、まだまだあると書かれている。

ただ、気をつけなければならないのは、その大半が「地名が現存する」ごとく書いていることだ。実際には「十三塚橋」以外、いくら今の地図をひっくり返してみても上記の地名は見つからない。正しくは「由来すると言い伝えられる地名があった」となる。

そのことを踏まえたうえで、まずは「小机の合戦」とはいかなるものだったのか、それをざっとおさらいしておこう。



小机城と亀甲山の陣のにらみ合い





「おさらい」と書いた理由は、「小机の合戦」については、すでにはまれぽの過去記事「横浜の「古戦場」はどこにある?」でも紹介されているからだ。
ただ、今回の記事でイマジネーションを掻き立てるには、背景となるこの合戦を押さえておくことが必須。ということで、おさらいのために「小机城址市民の森」を訪ねる。

「小机城址市民の森」はJR横浜線小机駅から徒歩十数分。



左右に田畑が広がる一本道の先に目指す森がある


目の前の小高い丘の上にかつて山城があった。今はもはやそこに城そのものはないが、小机城址は「続日本100名城」にも選ばれている。
その理由は城跡に入ってみるとわかる。


小机城址の登り口



しばらく登るとたどり着く根古谷(ねこや)広場


城のふもとにあたるここには城主の館や家臣の屋敷があった。


さらに登ると空堀(からぼり)があったり



土塁(どるい)があったり


そのほか櫓(やぐらあと)や井楼跡(せいろうあと)など、かつての山城の貴重な形状が多く残存している。


城址敷地内の案内図


同時に、城の北端に接する鶴見川はかつてこの辺りまで河口から船が遡上し、河岸(かし)まであったという。内陸部の飯田道や海へ通じる神奈川道、鶴見川という交通の要衝にあった重要な城だったのだ。


左が本丸(ほんまる)、右が二の丸(にのまる)跡


と、一応現在ではみなされているが、どちらが本丸だったか定かではないという。

小机城は関東管領上杉氏による築城といわれるが、それも正確なことはわからない。この城が歴史の表舞台に初めて登場するのが「小机の合戦」だった。

当時上杉家は、山内(やまうち)と扇谷(おうぎがやつ)の二家に分裂していたが、山内上杉氏の家臣・長尾景春(ながお・かげはる)が家督争いから主君に反乱を起こす。

この長尾勢を追討するため1478(文明10)年、太田道灌(おおた・どうかん)が江戸城から兵を挙げて小机城に攻め込む。戦巧者として名高い道灌だったが、長尾側が集結する小机城の守りは固く、2ヶ月の攻防の末ようやく攻め落とす。戦は凄惨を極め、累々たる屍(しかばね)が一帯を覆った。これが「小机の合戦」である。

このとき道灌が陣を張ったのが、小机城より少し北東に位置する鶴見川の対岸、亀甲山だった。亀甲山の地名の名残りは、現在鶴見川に架かる橋と交差点名、バス停名に残っている。


亀甲橋南岸(小机側)から亀甲山側を望む


写真中央の小高い丘付近が亀甲山だ。


ちなみに亀甲橋は「かめのこうはし」と読む



だが渡りきった先にある交差点名と、そばのバス停名は「かめのこばし」だ



いずれにせよ「亀の甲羅」のようだから亀甲山と呼ばれたのだろう


興味深いのは、亀甲橋の橋上から見渡すことができる小机城と亀甲山の位置関係だ。


橋上から西を望むと小机城址が見える


まさに鶴見川を挟んで、両陣営がにらみ合っていた様子がまざまざと想像できるのだ。この一帯でも、きっと壮絶な戦いが繰り広げられたにちがいない。


亀甲山と小机城の位置関係(© OpenStreetMap contributors)


そのあいだに、日産スタジアムすなわち横浜国際総合競技場という「競い合い」の場所があるというのも、なにかの縁だろうか・・・。


小机城址側から望む日産スタジアム


写真の左手奥、スタジアムの裏側に鶴見川が流れ、その先に亀甲山がある。



いよいよ小机の合戦由来の場所へ――まずは硯松


小机の合戦由来の場所の中で、今でも簡単に「ココ!」と、ピンポイントで指し示せるのが神奈川区羽沢町(はざわちょう)の「硯松(すずりまつ)」だ。なにしろその場所には、史跡として石碑が建っているのだから。


硯松は羽沢小学校のすぐそば


小机城を攻めあぐんでいた太田道灌は、自陣の兵の士気を鼓舞するために次のような歌を詠んだと言われている。

「小机は先(まず)手習いの初(はじめ)にて、いろはにほへとちりぢりになる」(『新編武蔵風土記稿』より)
昔、寺小屋で学ぶ子どもたちは背中に小さな机を背負って通ったという。手習い(読み書き)の初めは「いろはにほへと」。小机城など手習い初めのように簡単に攻め落とせる、という意味だ。

この歌を詠んだ場所こそ、「硯松」なのだと言い伝えられている。

だがそこは、実際に行ってみると、石碑が雑草に覆われていた。


ほとんど草に覆い隠されている「史蹟 硯松」の碑



それどころか史蹟の前はゴミ集積所になっていた


ちょっと、愕然とする。
だが、その左手には、とてつもなく美しいキャベツ畑が広がっていた。ちょっとホッとする。


この北海道のような景観の目の前に羽沢小学校がある



硯松のすぐそば、羽沢グリーンハイツの前には塚のようなものが



中腹中央の石碑には「供養塔」の文字が見え



頂の右側の碑には「浅間大神」と刻されている


やはりこの地は、なにか深い歴史的なオーラを感じる場所であることは確かだ。
とはいえ、この塚らしきものと小机の合戦とのつながりはわからない。横道に逸れそうなので、ひとまず現地を後にした。



続いてキニナル投稿の謎かけ、「十三塚橋」へ


実はこの硯松から十三塚橋まではとても近い。徒歩圏内だ。大人の足で10分ちょっと。


硯松と十三塚橋の位置関係(© OpenStreetMap contributors)


「ココ!」と指差せる場所という意味では、十三塚橋もそうだ。前述した通り、ここはしっかりと地図に記載されているのだから。


第三京浜の上に架かる十三塚橋



ズームすると橋桁に「十三塚橋」の文字が


この橋の周辺に「十三塚」という地名は残されていない。だが、この辺りに確かに十三塚があったのであろうことを推測させる資料を、神奈川県立歴史博物館の梯弘人(かけはし・ひろと)氏が教えてくれた。

それは、戦前の1937(昭和12)年版の『神奈川区誌』に残されていた。同書の「古墳」の項に、次のような記載があった。
「十三塚は神奈川区菅田町小名十三塚に在りたりと云ふ。今は取壊され其影を留めず」

確かにこの橋は羽沢町と菅田町(すげたちょう)の境界にあり、橋の北側には菅田町が広がっている。


橋の東端から北側の菅田町方面を望む


ひょっとしたら、この視界の中に十三の塚があったのだろうか。そして、それらは小机の合戦の死者を弔うものだったのか・・・。

いやいや、どうやらその判断は早計なようだ。菅田に十三塚があったことは推測できるが、それが小机の合戦とつながる根拠は見当らない。

梯氏も「一般的な十三塚と判断してよいと思われます」とご教示くださったが、実は「十三塚」は全国各地に点在している。それは室町時代頃から民間に広がった「十三仏信仰」に由来する伝承と関連しているようだ。
十三塚を小机の合戦と結びつけることは、無理があるように思われる。



九養塚の場所を求めて南神大寺団地へ


では、もうひとつのキニナル投稿の謎かけ、九養塚があった場所はどこなのか? また、小机の合戦との絡みでネットに多く登場する、その他諸々の地名の場所は?

ここで助け舟を出してくれたのが、またもや、これまで幾度もお世話になった大倉精神文化研究所の平井誠二(ひらい・せいじ)所長だった。平井氏から貴重な資料を入手する。それは横浜市立神大寺(かんだいじ)小学校が1981(昭和56)年に編集・発行した『わたしたちのまち神大寺』だ。

同書の「小机合戦」の項に、「九養塚」ばかりか「道灌森」「赤田谷」「刑付原」の場所に触れた箇所があった。やはりそこは、南神大寺団地の一帯。資料の記述を頼りにそれぞれの場所を探索することにした。


硯松、十三塚橋、南神大寺団地の位置関係(© OpenStreetMap contributors)



訪ねてみると団地は広大な敷地だった



上の写真などほんの一角にすぎない


この団地一帯に、かつては田畑と原野が広がっていたという。
『わたしたちのまち神大寺』(以下同書と呼ぶ)によれば、この団地のふもとに「道灌森」と呼ばれる「こんもりとした木立」が今もあるという。
小高い丘陵地に建つ団地の周囲をぐるりと巡ってみると、いかにもそれらしき森が団地の西側のふもとでみつかった。


団地と森の位置関係(© OpenStreetMap contributors)



森も広大で全体をとらえきれないが、その一部はこんな様子



少し森に接近してみる


同書によれば、この森の中に今でもこんこんと清水が湧き出る泉があるという。そして、小机城を攻める折り、太田道灌がこの泉で兵を休ませたという言い伝えが残っているそうだ。

だが、森は私有地のようで、これ以上勝手に中に分け入ることは難しい。

さらに同書によれば、この道灌森のある一帯がかつて「赤田谷」と呼ばれていた。道灌が敵の捕虜を処刑したその血で、一面の田畑が赤く染まったからだと言われている。


道灌森のさらに西側のふもとから森を仰ぎ見る



その森の背後の低地に広がる現在の畑



これは森の北東に延びる低地。この先に南神大寺小学校があるのだが


これらの谷戸(やと=谷間地帯)が赤田谷だったのだろうか。

そしてキニナル「九養塚」については、同書では次のように書かれている。
「南神大寺団地の南方、三ツ沢よりの丘に大正時代の頃まで、九養塚とよばれるまるい塚があったそうです。道灌との戦いで死んだ人々を供養して九つの塚をたてたということです」


「南方、三ツ沢よりの丘」というと団地内の案内図で見るとこのピンクの辺り



実際に足を運ぶと、この辺りとか



この辺りとか?


大正時代、すなわち今から100年ほど前まで、この土地に九つの塚があったのだろうか。
ちなみに、意味からすると「くようづか」と読むのが自然に思われるが、同書には「きゅうようづか」とルビが振られていた。

実は、この九養塚については、もうひとつ別の資料を発見した。それは、南神大寺小学校が1978(昭和53)年に創立五周年記念に作成した『五周年記念誌』という資料だ。

この書の「神大寺町の史跡と遺跡」という項に、九養塚について触れられていた。そこには次のように書かれている。
「小机合戦で死んだ者たちをとむらうために九つの塚をつくったという。いまではこわしてしまって住宅になってしまった。団地をつくる時に発掘したというが、出土品はなにもなかった」

やはり小机の合戦に因む九養塚の伝承は、根深く地域に残されているようだ。



「刑付原」は、いずこに?


ここでもう一度『わたしたちのまち神大寺』に戻って、「刑付原」について見てみよう。
同書には「六角橋中学の南側の丘陵一帯を、土地のいい伝えでは、刑付原とよびます」の一文がある。この言にしたがって、次に六角橋中学校の南側丘陵地を訪ねてみた。


「六角橋中学の南側の丘陵一帯」とは、今はこんな景色


画面左手の白い建物が六角橋中学校だ。やはり、辺りは広大な畑である。ここが、太田道灌が捕虜を処刑した場所だったのか?
ちなみに「刑付原」はやはり自然に読むと「はりつけはら」となるが、同書では「はつけっぱら」とルビが振られている。

この刑付原の伝承には諸説あるようだ。というのも、前出したもうひとつの資料、南神大寺小学校の五周年誌では「刑付原」の項に「八王子往還を塩嘗地蔵より進んで右手一帯の畑地は、むかし原野があって五〇〇年前に上杉氏と北条氏が戦った時、その捕りょを処刑したところといわれています」とあるからだ。
上杉と北条の争いとなると、これはいわゆる「小机の合戦」からさらに後の時代の話になる。

「塩嘗地蔵より進んで右手一帯の畑地」とは、次のようなところだ。


やはり大きな畑が広がっている


そして、「六角橋中学の南側の丘陵地帯」と「塩嘗(しおなめ)地蔵」と「南神大寺団地」を地図で示すと次のようになる。


位置関係がピタッと符合する(© OpenStreetMap contributors)


小机の合戦か、上杉氏と北条氏の争いか、いずれにしても戦国の世に、塩嘗地蔵の北側で兵が処刑され、その兵たちから流れ出た血が南側の低地にも及んだということか・・・。



取材を終えて


今回の取材は戦国時代の合戦の跡ということで、少々おどろおどろしい内容になった。
だが、こうした歴史に由来する地名は全国各地に残る。そして、そのほとんどはあくまでその土地に古くから言い伝えられる民間伝承だ。
それでも、今なお残る土地の地形と重ねてみると、なんとなく合点がいくような気もしてくるから不思議だ。

とはいえ、今回の小さな旅でもっとも印象に残ったのは、この地域に広がる豊かな「キャベツ畑」だった。横浜には、ちょっと移動すれば、まだこんなにも広大な畑地がたくさん残っている。

さすがに戦国時代はキャベツじゃなかったろうが、きっと同じようなのどかな光景が広がっていたのだろう。そこに暮らす民は、戦国武将らの合戦を横目に、日々淡々と畑を耕し生きていたのではないだろうか。もしかしたら、ダイダラ坊も手伝っていたりして。

なお、「十三塚橋」と「九養塚」はそれぞれ別のキニナル投稿だったが、下調べを進めていくと共通のテーマにつながると判断し、ひとつにまとめさせていただいた。スペースの都合で投稿記事の文面をかなり端折ってしまったが、どうか悪しからず。


―終わり―


取材協力
神奈川県立歴史博物館
住所/横浜市中区南仲通5-60
電話/045-201-0926
http://ch.kanagawa-museum.jp/

公益財団法人大倉精神文化研究所
住所/横浜市港北区大倉山2-10-1
電話/045-542-0050(代表)
https://www.okuraken.or.jp/


参考資料
『公益財団法人大倉精神文化研究所』ホームページ
「港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)・第231回 港北のお城と館 ―その6、小机城の1―」
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/wagamachi_kouhoku_3/kouhoku231/

『神奈川区誌』横浜市神奈川区役所編・発行(1937年10月刊)

『わたしたちのまち神大寺』横浜市立神大寺小学校編・発行(1981年10月刊)

『五周年記念誌』横浜市立南神大寺小学校五周年記念委員会編、横浜市立南神大寺小学校発行(1978年12月刊)


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  • 関ヶ原もそうだけど何故か戦場になりやすい場所ってありますよね。万騎が原にはお化けが出るって話があったけど日産スタジアムでは見たことがありませんね。

  • またまた戦いの歴史を良く調べましたねー

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