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まぼろし商店街 ~六角橋協栄会~

まぼろし商店街 ~六角橋協栄会~

ココがキニナル!

「昔は確かにここにあった!」という商店街を記憶や資料を頼りに再現すると、懐かしい情景がよみがえり、そこから新たなキニナルも生まれる予感が(ねこぼくさん)――今回は情報提供のあった六角橋の商店街を調査!

はまれぽ調査結果!

六角橋には白楽駅前の大通りだけでなくかつて幾筋も商店街があり、町全体がひとつの「六角橋商店街」と呼べた。なかでも祐天地蔵から横浜上麻生道路へ抜ける道は、バスも通るメインストリートだった。

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ライター:結城靖博

「昔は横浜にも大小さまざまな商店街が各地にありました。そしてそのほとんどの商店街は、現在はもうその名残すら残っていません。『昔は確かにここにあった!』という商店街を、記憶や資料を頼りに、当時のマップを作って再現してみませんか?

きっと、昔の懐かしい情景がよみがえって来るに違いありません。そしてそこからまた新たなキニナルが生まれて来る予感がします。読者参加型にして、情報を募集すれば面白いと思います」

「ねこぼく」さんからのそんなキニナル投稿を受けて始まった読者参加型の新企画「まぼろし商店街」。
はまれぽ公式Twitterからの呼びかけに応えてくださった読者からのリプライを受けて、最初に調査したエリアは、「くろねこ」さんから情報提供があった神奈川区六角橋(ろっかくばし)だ。




六角橋といえば白楽駅前の大通り「六角橋商店街」だが?



そう。今、六角橋の商店街としてすぐに思い浮かぶのは、東横線白楽(はくらく)駅前から横浜上麻生(かみあそう)道路へ通じる大通りだろう。



白楽駅側から横浜上麻生道路方面を望む六角橋商店街(去年12月の光景)


この通りは白楽駅で降りて神奈川大学へ向かう学生たちの通学路にもなっている。商店街に活気があるのは、ここが学生街でもあるからだろう。


もうひとつ、見逃せないのがこの一筋


六角橋商店街と並行して走る超狭あい空間のアーケード街、昭和の香りプンプンの「六角橋ふれあい通り」だ。

だが、ここだけが「六角橋商店街」だと思っては間違い――ということを、この界隈の大地主・山室宗作(やまむろ・そうさく)さんと奥様・郁子(いくこ)さんからの取材で理解することができた。



六角橋は戦前と戦後で見え方が変わってくる



六角橋自治連合会の森勤(もり・つとむ)会長に紹介していただいた山室さんは、近世までこの地域の名主だったという400年前から続く旧家・山室家のご当主だ。六角橋の歴史に精通している。



気さくに取材に応じてくれた山室夫妻


お会いしたのは、今年2020(令和2)年6月6日、新型コロナウイルスの影響で「食」に困っている学生たちを地域住民が支援するプロジェクト「まち“SHOKU”」の会場、六角橋公園プール集会所の控室だった。


プロジェクト開催中の六角橋公園プール集会所


山室ご夫妻もプロジェクトの応援のため、この日会場に駆けつけていたのだ。
ご主人・宗作さんは、わざわざこの取材のために、昭和初期の六角橋周辺と現在の同地を重ねた手の込んだ地図を作ってきてくれた。



現在の市街図を重ねた地図(左)を開くと、同倍率の古地図(右)が現れる

 


地図を示しながら丁寧に現在と過去のちがいを教えてくれた山室さん


あわせてご持参いただいた資料に掲載されていた六角橋界隈の古い商店街マップ、そしてご主人とともに町の変遷を詳しく語ってくださった奥様の助言・・・それらによって、今回のまぼろし商店街の姿は大きく浮かび上がってきた。

重要なのは、戦前と戦後の道路事情の変化だ。そこであらためて別の時系列対照マップで見比べてみよう。


左が1932(昭和7)年、右が現在(『今昔マップon the web』より)


どちらにも共通するのは東横線白楽駅だ。そして、そのそばの青いラインが現在の「六角橋商店街」。

では、左にあって右にないものは? 答えは市電六角橋停留所。

六角橋が「橘樹郡城郷村(たちばなぐんしろさとむら)」から「横浜市六角橋町」になるのは1927(昭和2)年のこと。市電六角橋停留所はその翌年にでき、さらにその2年後の1930(昭和5)年に横浜専門学校(現・神奈川大学)が同地に移転。

こうして、それまで農地が広がっていたこの地域は、昭和初期に新興都市として飛躍的に発展する。


1933(昭和8)年、杉山神社の神輿を六角橋交差点で待つ人々(写真提供:山室宗作氏)


上の写真の「内外珍果実卸」と書かれた店とたばこ屋の間の左手の道が、現在の白楽駅へ続く六角橋商店街だ。
通りに居並ぶ祭礼役員、消防団員、在郷軍人、かんかん帽に和服姿の見物人の山・・・。当時の町のにぎわいがよく伝わってくる。


そして、かつてあった六角橋停留所の様子(川俣勝一氏撮影、神奈川図書館所蔵)


上の写真は1968(昭和43)年に撮影されたものだ。同年8月末に市電六角橋線は廃線となる。おそらく、記念に最後の雄姿を撮ったものだろう。


現在の六角橋交差点付近


市電の終着点・六角橋停留所までの現在の横浜上麻生道路は、「市電通り」とも呼ばれていた。

ではまた少し前に戻って、前掲の時系列対照地図の右(現在)にあって左(1932年)にないものは? それは、かつての市電通りからさらに北西に延びる黄色いラインの横浜上麻生道路だ。

実は、横浜上麻生道路が市電の終点付近から北西へ延伸したのは、1952(昭和27)年のことだ。それまでは、現在の大通りには農地や原っぱが広がり、時系列対照地図上で矢印で示したAとBの2つ赤い弧線の道こそ、バスが通るメイン通りだったという。



農地と原っぱが広がっていた横浜上麻生道路


時系列対照地図上の赤い弧線Aは、六角橋北町の坂を取材した過去記事で紹介した商店街「六角橋北町商和会」だ。


看板アーチはまだあるが、通り沿いはほとんどマンションや民家の六角橋北町商和会


上記取材時、北町商和会にわずかに残る店舗、「サイクル工房ミサワ」の三澤明(みさわ・あきら)さんが「この(北町商和会の)通りこそ、バスが走る幹線道路だったんだよ」と言っていたが、それとまったく同じことが、もうひとつの時系列対照地図の赤い弧線Bにも当てはまる。

そして、この弧線Bこそ、今回の「くろねこ」さんから情報を提供していただいた「まぼろし商店街」なのだ。




六角橋交差点から西へ続くまぼろし商店街を辿る



「六角橋の交差点から神大寺方面に抜けるバス通り沿い」と「祐天地蔵から上麻生道路へ合流する道沿い」、この二筋を山室夫妻の証言と突き合わせると下記のような地図で表すことができる。


(© OpenStreetMap contributors)


六角橋交差点から西に折れて神大寺(かんだいじ)へ向かう現在のバス通りにも商店は並んでいたが、それほど長くはなく、せいぜい神奈川大学入口交差点付近までだったようだ。

むしろ祐天(ゆうてん)地蔵のひとつ手前のY字路を右に折れてふたたび横浜上麻生道路に合流する道こそ、その昔、ずらりと商店が居並ぶメインのバス通りだったという。

山室さんにいただいた資料の中に、今はなきタウン誌『とうよこ沿線』の創刊20周年記念写真集『わが町の昔と今 第3巻 神奈川区編』があった。

同書の中に、この地域の1950(昭和25)年当時の商店街を地域住民の回想をもとに再現した手描きマップ(以下「旧マップ」と記す)が掲載されている。それを見ると、確かにそこには、かつて桶屋や樽屋、鍛冶屋やかご屋があったことがわかる。

この写真集は2002(平成13)年に発行されたものだ。最初に旧マップが掲載されたタウン誌の刊行がいつかは定かでないが、少なくとも地図が作成されたのはタウン誌が始まる1980(昭和55)年以降だろう。

また、旧マップには、1950年当時はあったが地図作成時にはなくなっている店と、作成時にもまだ残っていた店が色分けされ、識別できるようになっている。

それによると、1950年当時ざっと100軒ほどあった商店の約6割は、すでに地図作成時にはなくなっていた。

こうしたことを踏まえて、同書を頼りに、現地を辿ってみることにした。


六角橋交差点を西に折れ神大寺に向かうバス通り、その入り口付近


通りに足を踏み入れるとすぐ左手、旧マップに記された位置とほぼ同じ場所に、同じ屋号の畳店が現存していた。

「くろねこ」さんのリプライで「今でも変わらず営業しているのは、畳屋さんと酒屋さんぐらいでしょうか」と書かれていた、おそらくその畳店だろう。


だが、地図作成時に畳店の隣りにあった「星野研物店」は、中華料理店になっていた


いっぽう同じ並びに、旧マップで「林理髪店」と記された店は、今も理容店として営業中だ。


現在の店名は「ヘアーサロンはやし」


「それなりに残っているんじゃない?」とも思ったが、理容店の隣りに1950年まではあった「井上空樽店」はすでにない。

またここまでの短い距離の間に旧マップに並んでいたパン屋、小鳥屋、ラジオ店、薬屋、金物屋、写真館等も軒並み消えている(うち数軒はすでに地図作成時に閉まっていたが)。

リプライの通り、旧マップには樽屋の2軒隣りに「鈴木桶や」があり、マップ作成当時はまだ営業していた。


だがそこは今「鈴木風呂店」となっていた


桶と風呂。うむ、これはつながりを感じる。


鈴木風呂店の向かいに居酒屋・食事処「三好野」があった


旧マップにもここは「三好野食堂」となっていた。今なお健在なようだ。

ここから祐天地蔵のひとつ手前のY字路までの間、旧マップでは左右の道沿いに時計屋、酒屋、洋服屋等々それぞれ5、6軒の店が描かれている。

もっともその多くがやはりすでに地図制作時に閉まっているが、今でも関連を感じる店が2店舗ほど残っていた。


「かどや食品店」となっていた場所は現在「かどや不動産」



「池田土建」と書かれていた場所は現在「楢原土建」


祐天地蔵手前のY字路角には旧マップでは1950年当時「山室米店」があったことになっている。そこは今、昭和の香り漂うスポーツ用品店「バロンスポーツ」だ。


Y字路右手が祐天地蔵へ続く道。左手が神大寺へ続く現在のバス通り


ひとまず、左手のバス通りのほうへ足を運ぶことにした。


その先には飲食店を中心にポツポツと店はあるが・・・


旧マップに1950年頃あったとされていた製車店(今や珍しき大八車などを作る店)や、やきいも屋、菓子店、電気店、染料店等々、道の左右に並んでいた10軒ほどの店は痕跡すらない。

また、リプライで「営業を続けている」との情報提供をいただいた酒店も、この筋には見当たらなかった。


ほどなく左手角にファミリーマートが見えてきた


酒店といえば、このコンビニがある場所は、旧マップでは「坂倉や酒店」となっていて、地図制作時に存在していた。


コンビニの脇道、はす向かいに「ヘアーサロンマセキ」があるが


ここは旧マップにも「マセキ理髪店」として記されている。

山室さんの話では、ファミリーマートから先は今も昔もあまり商店はないという。
実はコンビニのすぐそばに、山室家の邸宅がある。山室邸の近くに「白楽腎クリニック」があり、その先の神大寺・片倉町へ向かうバス通りは、確かにおおむね住宅地だ。


右手の茶色い建物が「白楽腎クリニック」。この先は神大寺に通じる






続いて祐天地蔵~横浜上麻生道路のまぼろし商店街へ突入!





というわけで、神大寺へ続く通りの探索はここで終了し、いったん昭和の香りのスポーツ用品店「バロンスポーツ」へ戻る。そして、そのY字路を今度は右へ。


Y字路右手に続く道


旧マップによれば、この道は「旧小机(こづくえ)道」。横浜上麻生道路ができるまでは、この道を通って小机へ向かっていたという。

そして、このスポーツ用品店(旧マップでは米店)の向かい辺りに石仏があり、石仏の右に時計店が、左にリプライでも情報提供があった鍛冶屋(「小山鍛冶や」)が1950年当時まではあったが、今や数軒の飲食店が点在するだけだ。


旧小机道の先を見やれば、目と鼻の先に祐天地蔵があるY字路を発見


上の写真左手の曲がりくねった脇道が、実はかつては神大寺・片倉へ通じる本道だったとか。そのように旧マップに記載され、山室さんも言っていた。

山室さんによればこの先に宝秀寺(ほうしゅうじ)があるので、「寺入りの道」とも呼ばれていたそうだ。


せっかくなので祐天地蔵に寄ってお詣りする



祐天地蔵の横、旧小机道沿いに2体の石仏の小さな祠がある


ひょっとしたら、これが旧マップに描かれていた石仏だろうか。ここに場所を移されたのか?

旧マップでは、この祐天地蔵の数軒先の道の向かいにリプライに記されたかご屋「小川かご店」が1950年当時はあったようだ。だが、地図作成時にはすでに閉店していた。


それどころか祐天地蔵の先は、とっつきに数軒の飲食店があるだけで



あとはほとんど民家が建ち並んでいる印象だ


この雰囲気は、かつて取材した「六角橋北町商和会」にきわめて近い。ただし、向こうはいまだに看板アーチが残り、商店街であることを無言で主張しているが、この通りにはそれもない。


商店街の痕跡は外灯に掲げられた「六角橋協栄会」の表示のみ



かろうじて目にとまった昔ながらの商店


ところが、この製氷・燃料という対照的な二つの商品を扱う「藤崎商店」は、旧マップには記載がない。


また、祐天地蔵の数軒右隣りに半分シャッターを閉めた店があった


「六角橋センター」とある。ヤクルトや牛乳を扱う店らしい。


さらに民家の並ぶ通りをしばらく進むと左手にこんな店が


中が薄暗いがビールケースが積まれていて、どうやら酒屋のようだ。だが看板もなく、店名はわからない。


その先はマンションが目立ち、遠くに横浜上麻生道路が見えてきた


結局、バロンスポーツから横浜上麻生道路に突き当たるまで、数えると約40軒ほどひしめいていた旧マップ記載の商店は、今はほとんどなくなっていた。
といっても、地図作成時でさえ、すでに存続していたのは10軒にも満たない。

1950年当時は、米屋、鍛冶屋、歯医者、呉服店、茶店、醤油屋、酒屋、かご屋、靴屋、乾物屋、青果店、駄菓子屋、肉屋等々、挙げればきりがないほど多様な業種の店があったのだが。

リプライに「現在も営業中」と書かれていた豆腐屋や元たばこ屋も、この通り沿いには見つけられなかった。


ただその間に、旧マップには載っていないこんなちょっとお洒落な店も点在する



そして通りの最後にトリを飾るがごとく現れたのがこの酒店


横浜上麻生道路と交わる六角橋2丁目の交差点角に店を構える「富士屋酒店」さん。


店内にいたお店の方に声をかけると旧マップに大いに関心を示された


そして、地図を見ながら親切に昔のことを教えてくれた。

もともとこの酒店は、旧小机道沿いにあった。1928(昭和3)年頃からそこで営業を始めたが、横浜上麻生道路が延伸してまもない昭和30年代初めに、現在の場所に移ったという。

確かに旧マップの中に、1950(昭和25)年まではそこにあり、地図作成時にはなくなった店として「富士屋酒店」が祐天地蔵の向かいに記されていた。マップ上の現在の位置に現・富士屋酒店の記載がないのは、書き漏れだろうか。

女性は今、50代後半。ご自身が子供時代だった昭和40年代には、すでにかなりの店がなくなっていたという。

また、ここに来るまでに見つけた「六角橋センター」は旧マップで「柳下牛乳店」と、看板のない酒屋は「青木酒店」とそれぞれ記載されており、現在でも同業を続けている貴重な2店舗だった。

しかし商店街全体は、横浜上麻生道路ができてからどんどん寂れていったという。道路完成後ほどなく店を新道路沿いに移した富士屋酒店には、先見の明があったということか。

終点までたどり着いたところで、現地取材はひとまず終了。そして、ここまでの調査を地図の上で整理してみた。


(© OpenStreetMap contributors)


上の地図で青色の店が現存する店、赤がすでにない店、ちょっと見にくいが黄色が業種や屋号は異なるが旧マップとの関連性が窺える店だ。
ちなみに、店名は旧マップの表記に合わせた。

あくまで筆者がチェックした店ということで、実際には前述したように、旧マップ上では1950年当時、二筋合計で100軒ほどの店舗がひしめいていたのだが・・・。




親松の湯・店主からいただいた貴重な資料




ここで別の角度から、さらに六角橋のまぼろし商店街を浮き彫りにしてみよう。

過去にはまれぽで古き良き銭湯として単独で紹介され、六角橋業務スーパーの七福神像の記事でもお世話になった、旧小机道と横浜上麻生道路の間に位置する老舗銭湯「親松の湯(しんまつのゆ)」。

3代目主人・堀正義(ほり・まさよし)さんから、今回の取材に関する貴重な資料を提供していただいた。


店のシンボルの松に抱かれ、今日も店先の縁台でお客さんたちがホッコリ



店舗ロビーで資料を手にした堀さんからお話を伺う


その資料とは、1953(昭和28)年11月に発行された『六角橋町の沿革 各種団体便覧』の写しだ。1953年といえば横浜上麻生道路が完成した翌年だ。


同書目次(資料提供:堀正義氏)


本文66ページに及ぶ同書は、上の目次からもわかる通り、六角橋町の沿革をあらゆる角度から記録しているのだが、この中に当時の各商店街の店舗一覧が掲載されていた。

以下が、今回取材した「六角橋協栄会」の店舗リストだ。


(資料提供:堀正義氏)


数えてみると64店舗。現地取材時に名前を挙げた店名も見える(堀さんの銭湯の名もあるが、よく見ると「親」ではなく「新」になっていた)。

このリストの数年前の様子を描いた旧マップには100軒ほどあったのでそれよりも少ないが、おそらくここに記載されている店が正式な加盟店だけだからだろう。
堀さんによれば、やはり神大寺に向かう筋と横浜上麻生道路に合流する筋は、どちらも「六角橋協栄会」に含まれるそうだ。

いっぽう、下は同書に記載された別の商店街の一覧だ。


(資料提供:堀正義氏)


「六角橋北栄会北町通」とある。これは、協栄会と似通った運命を辿った「六角橋北町商和会」のことだ。見比べてみると、資料が作成された当時の商店街の規模の差がはっきりわかる。

また、この資料からは新たな発見もあった。それは「六角橋公設市場」の存在だ。資料の中に市場の店舗一覧もあったのだ。


(資料提供:堀正義氏)


堀さんから聞いた旧公設市場の場所を訪ねてみた。


そこは神大寺へ向かうバス通り沿い



山室家の邸宅を過ぎ神大寺方面へもう少し向かった左側。

現在、市場があった場所には大きなマンションが建っている。そして写真右手の道を入ると神奈川大学のキャンパスだ。


(© OpenStreetMap contributors)


公設市場がいつ頃まであったのか調べていくと、以前はまれぽで取材していることがわかった(戦後の動乱期に市民の台所を支えた「公設市場」の名残は横浜市内にまだある?)。その記事によれば、1990(平成2)年頃なくなったらしい。

どこにも共通して言えることだが、やはり平成に入ってから、地域は大きく様相を変えていくようだ。




取材を終えて



「くろねこ」さんからの情報提供通り、今回取材した二筋の通り一帯には、かつて相当にぎやかな商店街が広がっていたことがわかった。

昭和初期に市電が通り学校が誘致された新興の町には、自然に商店街が育まれていったのだろう。

だが、地主・山室宗作さんのお話では、今にぎやかな六角橋商店街と六角橋ふれあい通りは、むしろ戦後の疎開空地にできた闇市場から発展したので、旧小机道周辺のほうが歴史は古いという。

「さかのぼれば、江戸時代からこの辺りは小机方面の農地から作物を運んできた人たちが、神奈川宿に入る前に荷姿を整える中継点の役割を担っていた」と山室さんは言う。

それがまた戦後の道路整備によって環境を大きく変えていくわけだが、六角橋自治連合会の森勤会長によれば、六角橋全体が一体であることは変わらないという。そして、そこには「神奈川大学の学生さんたちの存在も大きい」と。

「若い人がいることで、町は活性化するんですよ」

5年ほど前から、地域住民と神大のボランティア・サークルの学生、そして大学教授らの間で話し合い実現してきた「六神祭(ろくじんさい)」などの共同イベントの成果が、今回コロナ禍の中で食に困っている一人暮らしの学生たちを支援するプロジェクトにつながった。


集会所の2階会場で米や缶詰、飲み物などを支給される学生たち


訪れた男子学生の一人に話を聞くと、今大学4年生の彼は、山梨の実家を離れ一人暮らしをしている。外出自粛要請以来、カラオケ店でのアルバイトがなくなり、生活費がピンチだという。「食料の寄付はほんとうにありがたいです」と言って帰っていった。

そんな彼らの姿を見守りながら、森会長は「彼らが学生時代に『六角橋は良い町だなぁ』と思ってくれて、また社会人になったらここに戻ってきて、新たな住人になってくれたら嬉しい」という。

六角橋の商店街地図はこれからも時代とともに変容してくだろう。しかし、地域住民たちは次代に目を向け町に新たな灯をともし続ける努力を惜しんではいなかった。



―終わり―


取材協力
六角橋自治連合会
問合せ先/横浜市神奈川区六角橋3-3-13(六角橋ケアプラザ)
電話/045-413-3281

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

横浜市神奈川図書館
住所/横浜市神奈川区立町20-1
電話/045-434-4339
開館時間/火~金9:30~19:00、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/kanagawa/

富士屋酒店上町
住所/横浜市神奈川区六角橋2-27-13
電話/045-491-8134

親松の湯
住所/横浜市神奈川区六角橋2-15-5
電話/045-491-8196
https://k-o-i.jp/koten/shinmatsunoyu/


参考資料
『「とうよこ沿線」創刊20周年記念 わが町の昔と今 第3巻 神奈川区編』岩田忠利著、「とうよこ沿線」編集室編・発行(2001年2月刊)

『六角橋町の沿革 各種団体便覧』六角橋連合会委員・小原栄次郎編集(1953年11月刊)


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  • 記事本文に見つからなかったとある酒屋さんですが、画像のファミリーマートの先、「こばやし歯科」の右隣りのことかと思います。この酒屋さんはかなり古くから営業されていて、バス通りに滝の川が流れていた当時は、川がじゃましてこちら側からは入ることが出来なかったそうです。そしてその先、「小松工務店」の右隣りが、「元、六角橋公設市場」です。

  • エニタイムはお洒落なお店ではなく、障害児さんたちの為の放課後デイサービスを行っている施設ですね外にも貼り紙などがあったはずですが…

  • こういう横浜の細かい歴史を辿るのははまれぽならでは。とても良いですね。

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