【横浜の名建築】長浜野口記念公園 旧細菌検査室
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第29回は、金沢区長浜の旧細菌検査室。千円札でもおなじみの偉人、野口英世がペストから日本を守り、世界で活躍するきっかけを作った建物だった。
ライター:吉澤 由美子
京浜急行の能見台駅と金沢シーサイドラインの幸浦駅の間に、『長浜野口記念公園』があり、小さな『旧細菌検査室』が建っている。これは、1895(明治28)年にできた横浜海港検疫所の施設のひとつ。
右が旧細菌検査室。左は事務棟を再建した長浜ホール
1899(明治32)年には、22歳の野口英世(のぐちひでよ)がこの旧細菌検査室で検疫業務を行い、ペスト菌患者の発見という功績を挙げている。これをきっかけに、野口英世は世界的な細菌学者へと羽ばたいていくことになる。
千円札でもおなじみの野口英世
今回、旧細菌検査室と長浜ホールを案内いただいたのは、長浜ホールの館長である長谷良夫さん。
野口英世の隣で撮影に応じてくれた長谷館長
横浜海港検疫所の細菌検査室
1879(明治12)年にコレラ蔓延防止のため神奈川県地方検疫所が設置され、三浦郡長浦(現:横須賀市長浦)に消毒所が設けられた。外国から来た船が港に接岸する前に、伝染病に感染している疑いのある乗員、乗客の有無を検査し、感染していた場合には隔離して診断、治療する施設だ。
その後、消毒所はこの長浜に移転。そして、1899(明治32年)「海港検疫法」の交付に伴って「横浜海港検疫所」と改名される。
昔は目の前が海。桟橋の奥に旧細菌検査室と事務棟が見える
長浜の横浜海港検疫所は創建当時、目の前に海が広がっていた。海には桟橋があって沖合に停泊した外国船に船で出向いて検査を行う。伝染病の蔓延を防ぐという意味で、一方を海に、他方を丘に囲まれたこの場所は検疫所に最適だった。
海だった場所は現在、甲子園常連の横浜高校野球部グラウンドになっている
海外の患者を収容する施設なので、建物は洋館風。賓客を隔離する可能性もあり、そのためホテルのような迎賓館も作られ、当初は40近い建物群が点在していたらしい。
施設のほとんどは関東大震災で倒壊したが、翌年には再建。その後、1952(昭和27)年、大さん橋近くに横浜検疫所が移転し、長浜の検疫所の施設は徐々に使われなくなっていく。
施設の一部だったレンガが庭から出土した
1985年に明治大正期に作られた建物のほとんどが解体されたが、野口英世博士ゆかりの旧細菌検査室は熱心な保存活動により解体をまぬがれ、1993年に横浜市が国から研究室を取得。改修工事が行われ、「長浜ホール・長浜野口記念公園」が1997年にオープン。現在に至っている。
近くの自販機には、野口英世キャラの姿
昔の検査器具も残る 旧細菌検査室
広い敷地内で、海に近い場所に作られた旧細菌検査室。
白い外壁と緑の窓枠や扉が木立に囲まれている
現在のエントランスは、創建当時裏口だった。中には顕微鏡が展示されている。
奥のガラスケースにはライカのカメラで画像を撮影する顕微鏡
先に進んだ旧正面入口の内部には、地下冷暗所への入口がある。
薬品等を保管した地下冷暗所入口は現在、閉じられている
左手の部屋は、動物実験室。当時は細菌を検査するための血清などを作っていた。
動物実験室では現在、昔の医療用品が展示されている
往診カバンの中身。ペニシリンも見える