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北鎌倉の「14年待ち」の天使のパンは本当に届くのか?

北鎌倉の「14年待ち」の天使のパンは本当に届くのか?

ココがキニナル!

今注文すると14年待ちという、北鎌倉の「天使のパン・ケーキ」のパン・ケーキの味と、どんな人が作っているかがキニナル(ウル虎の冬さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

落車事故で脳と左半身に障害を抱えた元競輪選手が1日に数個ずつ、注文者のために心を込めて作っているので、現在はおよそ14年待ちで届く

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ライター:紀あさ

どうしてひとつずつなの?



泉己さんと総子さんの出会いは競輪場。競輪選手だった泉己さんと競輪場のマスコットガールだった総子さん。2001(平成13)年の春、初めてであった時の泉己さんの印象は「ただならぬ、ふわっと感」だったと総子さんは語る。
 


このふわっと感は、パンを作り始めてからでなく競輪選手時代からのもの(HPより)

 
泉己さんにとって、総子さんは初めての恋。ハンカチ越しに手を繋ぐようなふたりだったという。

初めてのプレゼントは、泉己さん手作りのチーズケーキ。一口食べるとほっとして気持ちがほぐれた。お店で食べるみたいにおいしくて、競輪選手なのにお菓子づくりの才能があった。
 


泉己さんの一目ぼれから始まった初めての恋で結ばれた

 
対する総子さんは江の島でライフセーバーを7年間も務めたり、モデルやテレビのレポーターもこなしたりの行動派。自由にどこでも飛び回るタイプ。「30才の誕生日までに煙突のついた白い家を建てたい」そう話す泉己さんを見ていて、総子さんは「その夢叶えてあげたいな」と思った。

結婚の約束も言葉にしないままに、ふたりで建てた家は2004(平成16)年のクリスマスに完成。一緒に住み始めたが、ひとつのところに留まるのが怖くて結婚に踏み出せなかった総子さん。2005(平成17)年3月の泉己さんの30才の誕生日にやっと入籍。泉己さんの夢が叶った。
 


煙突がついた家が完成


煙突の下には暖炉も(現在は子ども用の安全柵が付いている)

 
その年の8月、「家を建てたからどうしても勝ちたい」、泉己さんがそう言って臨んだ大宮競輪。最終コーナーを1着で通過したその時、事故が起こった。

後続の2選手が接触して落車。その車輪が泉己さんの自転車に接触、バランスを崩した泉己さんは、自転車ごと宙を回転、頭からバンクに叩きつけられ、病院に緊急搬送された。脳と頸髄(けいずい)の損傷と診断され、首から下がまったく動かない全身麻痺となり、医師から「一生寝たきりになるかもしれない」と宣告される。

病院のベットで意識が戻ると、一言目に「ごめんなさい」そして「僕を見捨てて下さい」と言った泉己さん。「頑張っているこんなピュアな人をこのままで終わらせない」総子さんはそう決意。
 


「必ず治って、一緒に歩いて家に帰ろうね」と誓った

 
脳の損傷のため、失語の症状もあったが、「何作りたい? チーズケーキ?」と聞くと、目がキラキラと輝いた。「じゃあ退院したらチーズケーキを作ろう」。言葉は総子さんだけが話していたが、表情で思っていることは伝わっていた。

それからの懸命なリハビリで、体は奇跡的に動くようになり同年11月末に退院。本当に歩いての帰宅となった。けれど、高次脳機能障害・脳脊髄(せきずい)液減少症・左脚下麻痺を抱え、その時は競輪選手としての復帰には程遠かった。
 


全身麻痺からの回復、自分の足で歩いて、自宅へ帰ってきた

 
自宅でのリハビリに何ができるか、と悩んだとき、「退院後にリハビリを兼ねてパン作りをする人がいる」という病院の先生の言葉を思い出した。

鎌倉のパン教室でパン作りを学び、家に遊びに来た友人に食べてもらっているうちに、泉己さんの焼くパンのファンができた。それが少しずつ増えて、やがて全国から注文をもらうようになっていった。
 


リハビリで始めたパン作り

 
そして、メディアなどでも紹介されるうちに、今や届くまでに14年待ち。途中、複数個同時に作ることを試みたこともあったが、納得のいくパンにはならなかった。

「誰のために作っているのか分からないパンなんて僕には作れない」と、今までずっと、ひとつずつ作っている。体調の悪い日は全く作れないこともあるが、普段は午前2時に起きてパンを作り始める。左脚下の麻痺は残るが、毎日5時間の龍聖くんとのお散歩も日課。
 


食べ物で元気になってもらいたいと思いをこめる泉己さん