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【探訪】令和に生きる横浜の銭湯Vol.2 ―中区北方町・泉湯―

【探訪】令和に生きる横浜の銭湯Vol.2 ―中区北方町・泉湯―

ココがキニナル!

もはや横浜市内全域で60軒ほどに減ってしまった昔ながらの銭湯。それでも今なおどっこい生き抜くキニナル現場、その第2弾は果たしてどんなところか!?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜八景のひとつ、北方の町。泉湯はそこで70年以上続く。落ち着いた住宅街の中にあって庶民的な客層が多い老舗銭湯は、「もらいもの」と創意工夫でたくましく移りゆく時代を乗り越えてきた。

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ライター:結城靖博

浴場の壁には立派な銭湯絵が健在!


 
男湯の浴場の中へ入ると、「ジャーン!」いきなり見事な銭湯絵が目に飛び込む。
 


「おおっ、富士山!」

 
と叫んだら、「富士山は女湯のほう」と滋夫さんが教えてくれた。
 


こちらが女湯の壁の「富士山」
 

絵には日付とサインがあった

 
この絵を描いたのは、田中みずきさんという今注目されている若手の女性銭湯絵師だ。日付を見ると2年ほど前に描かれているが、銭湯絵は普通4~5年で描きかえるそうだ。

「昔は特にペンキが剥げるのが早かった」と健一さんは言う。「でも、絵の描きかえはタダだったから」とも。どういうこと?
かつて銭湯絵の下には、必ず広告があった。また、脱衣所には映画のポスターなども貼られていた。それらを一手に引き受ける広告業者が、銭湯絵の費用も負担していたのだという。
バブル期前後から、そういう習慣がなくなっていったそうだ。
 


その名残が男湯脱衣所の横のサッシを開くとあった

 
物置で見つけたという昔の広告板を飾っている。古いものをなんでも大事に残す泉湯さんだ。

見事な銭湯絵の下には、ジェットバスと薬湯の2種類の浴槽がある。
 


深さの異なる女湯の2つのジェットバス(営業前なのでまだ気泡は出ていない)
 

その左手に薬湯(まだ薬湯の素も入っていない)

 
男湯のほうも左右対称でこれと同じ造りになっている。
 


とても高い浴場の天井(ここも絵の描きかえ時に塗り直したそうだ)
 

桶はお決まりのケロリン
 

そして清潔な洗い場

 
この洗い場の床のタイルにも健一さんのこだわりがある。息子さんたちが跡を継ぐとわかったのち、2014(平成26)年に設備の大改修を行った。そのときのひとつがこのタイルで、すべりづらい特別な材質だという。
 


「この手すりは平成元年の大改修のときに付けた」とも

 
長い歳月の中で少しずつ手塩をかけて改良してきたその一つひとつが、健一さんには愛おしいようだ。
 
 
 

恒例の“バックヤード拝見”


 
無理なお願いを快諾していただき、泉湯でも銭湯の舞台裏を見せてもらった。
 


男湯のほうから浴場の裏へ
 

これが心臓部のボイラー

 
泉湯が薪からガスに換えたのは、2003(平成15)年のこと。
 


これがシャワー用の貯水槽
 

これが濾過機
 

濾過機のそばには電気設備。これで湯量を自動調節する

 
銭湯の舞台裏は古民家のような外観からは想像もできない、複雑な船の機関室のようだ。

煙突にも、健一さん自慢の工夫が加えられていた。
 


建屋の右手にある煙突
 

よく見ると先端に不思議な形の金属が

 
これは、近所から「ガスの音がうるさい」と言われてつけた、特注のマフラーなのだという。閑静な住宅街の中にある銭湯ならではの苦肉の策だ。
 
 
 

泉湯の歴史と日常


 
そろそろ営業開始時刻の13時が近づく。脱衣所に戻って、健一さん・滋夫さん父子と、妙にまったりとした時間を過ごしながら泉湯の今昔を伺った。
 


3人でいい感じにくつろいでしまった

 
昔銭湯には、オーナーから設備を借りて経営する「貸し浴場」という制度があったそうだ。銭湯が大いに繁盛した時代、このシステムを利用して多くの店が生まれた。
泉湯初代の健太郎さんも修業時代を経て東京・麻布を皮切りに、赤坂、横浜海岸通り、元町と貸し浴場の経営を転々とする。そして元町の店が空襲で焼けてたどり着いたのが、この土地だった。

ここで初めて健太郎さんは土地を借りて、自前の銭湯を建てた。
 


建物は当時とほとんど変わっていないという

 
初めて持った自分の銭湯ということで、健太郎さんは店をとても大切に扱ってきた。健一さんにも見られるその姿勢は、父・健太郎さんからの血なのだろう。
 


初代の思いの痕跡のひとつがこの柱

 
ヒノキよりも強度の劣るスギを使っているが、父・健太郎さんが繰り返し防腐剤を塗り込み続けたおかげで、70年経ってももっているのだと健一さんは言う。

やがて1960(昭和35)年頃、修業時代のお風呂屋から借金をして、借地だった土地を購入し現在に至る。
「次々と銭湯がなくなる中、今でも細々ながら続けられるのも、おじいさんが苦労して自分の土地・建物を持ったからだ」と滋夫さんも言う。
 


現在は3代目の健一さんと次男・滋夫さんのほかに・・・

 
健一さんの妻・ひろ子さん(82歳)と長男・淳一(じゅんいち)さん、総勢4人で店を切り盛りしている。ちなみに健一さんの二人の息子さんは、50代後半と60歳だ。

番台は、開店から16時までが滋夫さん、そのあと1時間がひろ子さん、続いて2時間健一さんが入り、19時からまた滋夫さんに代わる。そして、最後に長男の淳一さんが来て浴場の掃除をするのだという。