西区藤棚町にある「第七有隣堂」、有隣堂からのれん分けされた経緯とは?
ココがキニナル!
藤棚商店街に第七有隣堂という書店があります。のれん分けしたお店ですが現在、有隣堂とは無関係との事です。どの様な経緯でのれん分けがされて、現在に至ったのか知りたいです。(秋沙さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
関東大震災後、有隣堂の番頭格であった浅海卓さんほか、何人かの店員にのれん分けが行われました。今では本社を除いては「第七」しか残っていません。
ライター:河野 哲弥
だいしちと読む「第七有隣堂」
相模鉄道本線西横浜駅から歩いて5分ほど、「藤棚町」の交差点を中心に展開するのが、通称藤棚商店街。
今回依頼があったのは、この「藤棚町」の交差点の一角に建つ「第七有隣堂」という書店についてのもの。「有隣堂」といえば、神奈川県下を中心に展開する大手書店チェーン。読者の中にも、一度は利用されたことのある方がいらっしゃるのではないだろうか。
「藤棚町」の交差点に建つ、「第七有隣堂」外観
ところが、この店舗は「第七」という独自の屋号を持っている。いったい、そこにはどんな事情があるのだろう。
そこで、同店に取材を申し込んでみた。
かつては「第九」まであった、「第○有隣堂」
お話を伺ったのは、第七有隣堂代表取締役の浅海栄一さん。
このお店を開いたのは、祖父にあたる故人、浅海卓(あさうみ・たく)さんになるそうだ。しかし、記録などを残していた訳ではないので、聞かされていた話の範囲でしか説明できないという。
栄一さんの母親かつ子さんと、店内の様子
まず、もともとの有隣堂は、19世紀の終わり頃に創業したと聞いているそうだ。
そして、創業者の兄弟たちが、第二有隣堂から第四有隣堂を次々に開業していったらしい。
伊勢佐木町にある、現在の「有隣堂本店」
転機はその3年後に訪れる。1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災である。
震災によって店舗や書籍を焼失した有隣堂は、学校の指定図書なども扱っていたため、顧客のフォローが急務となったようである。そこで書籍の供給体制を整えるべく、第五有隣堂から第九有隣堂までの独立した新店が、ほぼ同時に誕生したそうだ。
1923(大正12)年に発生した関東大震災直後の、関内方面の様子
(「横浜市市史資料室」所蔵資料)
「第四有隣堂」に勤めていた浅海卓さんは、永年番頭と呼ばれるほど信頼されていたため、新たな店を任されることになったようだ。時期は不明だが、当時、藤棚町にあった旧制第一中学校(現、神奈川県立希望ヶ丘高校)に近い、現在の場所を選んで「第七有隣堂」を出店。資本などの提携はなく、完全に独立した店舗だったとのこと。名だたる進学校で学ぶ県下の秀才たちが、まるで下宿先のようにこの店で過ごしていたという。
紙の原料である木をモチーフにした、同店のカバー類
しかしこれらの各店も、戦時中の横浜大空襲によって焼失。再建したのは、本店の系列を除いては、唯一「第七有隣堂」だけとなってしまったようだ。
残念ながら、栄一さんが把握できているのはここまでとのこと。そこで、有隣堂本社にご協力をいただき、もう少し詳細な経緯を調べてみることにした。