西区藤棚町にある「第七有隣堂」、有隣堂からのれん分けされた経緯とは?
ココがキニナル!
藤棚商店街に第七有隣堂という書店があります。のれん分けしたお店ですが現在、有隣堂とは無関係との事です。どの様な経緯でのれん分けがされて、現在に至ったのか知りたいです。(秋沙さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
関東大震災後、有隣堂の番頭格であった浅海卓さんほか、何人かの店員にのれん分けが行われました。今では本社を除いては「第七」しか残っていません。
ライター:河野 哲弥
「第七」以外の、「第〇有隣堂」の歴史
有隣堂本社によれば、過日発行した「有隣堂百年史」よりも、「有隣堂八十年史」の方により詳細な記述があるという。
平成元年に発行された「有隣堂八十年史」
同書によれば、株式会社有隣堂の創業者である松信大助氏は、大野家の四男として生まれたそうだ。しかし後に養子縁組に出たため、松信姓となっている。以下、特に必要のない場合、単に大助氏とさせて頂く。
株式会社となる前、一書店としての「有隣堂」は、実は大助氏の長兄にあたる大野貞造氏が開業した。詳しい年代・場所は記録に残っていないが、おそらく1894(明治27)年ではないかと考えられているそうだ。
「第二有隣堂」は、1900(明治33)年に、大助氏らの姉ロクと結婚した前澤鐘太郎氏によって開業。このときもとからあった「有隣堂」は、「第一有隣堂」に改称した。
続いて1902(明治35)年、次兄の辰蔵氏が「第三有隣堂」を開業。1909(明治42)年には、大助氏が「第四有隣堂」を開業し。その後、長男貞造氏が1916(大正7)年に死去すると、大助氏が後を継ぐかたちで「第一」を吸収合併。その後1918(大正9)年に、大助氏が代表取締役となり株式会社有隣堂を設立した。(屋号としての「第一」と「第四」は消滅)
在りし日の「第四有隣堂」
(「有隣堂八十年史」表紙より)
一族以外へののれん分けが進んだのは、やはり関東大震災が起こった1923(大正12)年以後のようである。番頭格だった店員などを中心に、同年には「第五有隣堂」、1925(大正14)年には「第八有隣堂」、1932(昭和7)年には「第九有隣堂」がそれぞれ誕生。
「第七有隣堂」については前述のとおりで、開業日についての記載は、同社史にも残されていない。同様に、「第六有隣堂」についても、大正末期の広告にわずかにその名が確認できるほかは、明確な資料は残っていないそうである。なお、1928(昭和3)年に記された神奈川県書籍組合名簿によれば、当時の各店舗の所在地・責任者は以下のとおり。
「有隣堂」という屋号以外にも、のれん分けは進んでいたようである
(「有隣堂八十年史」抜粋)
また、長男貞造氏の妻ハルの兄にあたる岩楯堅次郎氏が営む「合名会社有隣堂(通称・有隣堂文具部)」や、上図「五車堂書店」のような「有隣堂」の屋号を持たない店舗も、いくつか存在していたようだ。
いずれにしても、「第四有隣堂」に端を発する本社と「第七有隣堂」を除いては、企業整備や戦災などによって、現在全て廃業に至っている。
100年以上続く老舗ののれん
株式会社有隣堂では、「第四有隣堂」を開業した1909(明治42)年を創業年と位置づけている。同社のように100年以上も続く老舗は、日本には10万社以上もあるそうだ。しかし、これほど老舗の多い国は、世界でもあまり例がないらしい。
改めて見てみると、歴史と風格を感じさせる本店ビル
聞けば、その理由のひとつは、のれん分けという昔から日本に伝わる独特の分店手法なのだとか。事実、大助氏が「第四有隣堂」を開業していたからこそ、現在に続いているといえる。もちろん、「第四」からさらにのれん分けされた「第七有隣堂」も同様である。そう考えると、これらの店舗を見る目も少し違ってくるのではないだろうか。
-終わり-
USAさん
2016年11月19日 15時15分
十数年前ですが希望ヶ丘高校に出張販売?に来てたのを思い出しました。別のお店なのは知っていましたがこんなルーツだったとは。良い記事でした!
K32さん
2016年11月16日 05時17分
K32 311Hコレだけでわかる人にはわかります(笑)購買部に出店が有って、アロマ自習で新年度初頭に教科書を買えないと、慌てて藤棚まで買いに行きました。懐かしいですね。
リュウセイさん
2016年11月15日 17時25分
昔から前を通る度に不思議に思ってました。
勉強になりました。