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豊かな自然に囲まれていた、かつての捜真女学校の様子を見てみたい

ココがキニナル!

神奈川区の捜真女学校は洋館風の木造校舎で雰囲気のある建物だったそう。周りは自然に囲まれ、ノウサギなど野生動物も見られたとか。当時の様子を知りたい(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

現在の場所に移転した当時、丘の上にあるのは捜真女学校だけだった。周囲は雑木林や麦畑で、生徒たちはまだ舗装されていない道を歩いて通学していた

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ライター:永田 ミナミ

捜真女学校のはじまり



捜真女学校は、プロテスタント、バプテスト派の流れを汲む、聖書に基づいたキリスト教教育をおこなう完全中高一貫校であり、1886(明治19)年に、外国人居留地山手67番にあった聖書印刷所の2階に家塾として開設した「横浜英和女学校」を前身とする歴史ある学校である。

開校時は6人の生徒からはじまった捜真女学校は現在、約1200名が学んでおり、卒業生には作家の角田光代、作詞家の阿木燿子、フリーアナウンサーの三雲孝江などがいるほか、元教員には日本画家の小倉遊亀、定年まで教員を務めた舞踏家の大野一雄がいる。
 


のちに捜真女学校へとつながる英和女学校の建物
 〈クリックして拡大〉

1890(明治23)年に第2代校長クララ・A・カンヴァースの来日後、山手34番に校舎の建築が始まり翌1891年に完成、移転する。このとき生徒とともに話し合い「勉強とは真理を捜し求めることである」という考えから、校名を現在の「捜真女学校」に改めたという。ちなみに英語の校名は校舎建築費用を寄付したアメリカ人女性の名前から「Mary. L. Colby. Home(メリー・エル・コルビー・ホーム)」といった。

このあたりの経緯は1918(大正7)年神奈川県教務課発行の『神奈川県教育要覧』や、1932(昭和7)年横浜市役所発行の『横浜市史稿教育編』などにも詳しく述べられている。Mary. L. Colbyが前者では「メレーエル、コルベー」、後者では「メレ・エル・コルベー」となっていて、ほんのりとノスタルジーが漂う。

さて、その後、神奈川区中丸の現在地に移転したのは1910(明治43)年である。横浜市中央図書館で調べてみると、中丸に移転後の捜真女学校を写した写真絵葉書を何点か見つけることができた。
 


「(捜真女学校)三年 タンツライゲン」(提供:横浜市中央図書館所蔵)
 〈クリックして拡大〉

資料では校庭の向こうに木々が見え、豊かな自然に囲まれている様子がうかがえる。しかし、図書館の絵葉書資料はいずれも校庭の風景を撮影したもので、校舎を写した写真はない。



捜真女学校をたずねて



そこで捜真女学校に問い合わせてみると、快く取材に応じていただけることになり、写真も見せていただけることになった。

というわけでもうすぐ桜が咲きそうなよく晴れた午後、捜真女学校へと向かった。
 


近道を探しすぎてうっかり未舗装の路地に入り込んでも気持ちいい春の午後
 

地図を見てルートを修正し、バス通りに出て歩いていくと、丘の上に建つ学校へと向かう道からは魅力的な坂道が延びている。
 


目測で11°といったところか
 

こっちの坂は12°をマークか
 

さて、急坂ドットを横目に学校へと歩いていくと、前方にすっきりとした直線的なデザインの塔の上に立つ、十字架が見えてきた。
 


現在の捜真女学校である
 

陽射しが降りそそぐ明るいガラス張りの正面玄関から校内へ
 

受付で手続きをすませ、会議室で待っていると、まもなく電話でも対応していただいた学院長の中島昭子先生が、アルバムや資料を持ってきてくださった。

というわけでここからは、中島先生からうかがった話を中心に進めていくことに。