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老舗百貨店「松屋」は横浜発祥って本当?(中編)

ココがキニナル!

銀座の松屋が昔、石川町付近にあったらしいのですが面影は?(yokkoさん)松屋が、単に伊勢佐木町にも有ったし戦前吉田橋のたもとにあったが位置関係がわからない(ushinさん)

はまれぽ調査結果!

matuya吉田橋のたもとにあった松屋呉服店は、現在は首都高となっている川沿いの関外側に、吉田橋と羽衣橋にはさまれるようにして建つ壮麗な建物だった

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ライター:永田 ミナミ

石川町地蔵坂下から始まった



今日では銀座と浅草において象徴的な百貨店となっている「松屋」が、横浜石川町の地蔵坂下に創業した「鶴屋呉服店」であることについては前編ですでに述べた。
 


左から「松屋銀座」と「松屋浅草」(提供:株式会社松屋)

 

この2つの松屋の原点は◯に「正」(鶴屋呉服店の商標)の場所である

 
江戸と横浜を往復して仕入れた呉服を小売店に卸す「仲継業」を営んでいた古屋徳兵衛氏が、1869(明治2)年に同郷のとみ(後に満寿と改名)と結婚し居を構えたのがこの場所だった。そして妻満寿が自宅前で端切れを売り始めたのが松屋の端緒となり、その繁盛ぶりは目の前の橋が「亀の橋」と名づけられるほどであった。

1889(明治22)年には、経営難に陥っていた神田今川橋の松屋呉服店を買収するかたちで救済し東京に進出。横浜は鶴屋呉服店、東京は今川橋松屋呉服店という体制となる。この買収が結果的に今日の「松屋」につながる。

松屋の経営再建に成功する一方「鶴屋」も成長を続けた。1903(明治36)年には黒壁土蔵造り総2階建の堂々たる店舗に増改築。
 


1910(明治43)年には隣接地に客食堂を備えた3階建洋館も完成(提供:株式会社松屋)

 
ところが1914(大正3)年、建設中だった4階建の馬車道別館が完成直前に出火。1921(大正10)年には、亀の橋鶴屋呉服店が洋館地下室から出火し全焼、土蔵造の旧館もほぼ全焼と火災が続いた。

その後、わずか10か月で新店舗を完成させるが、2年後、今度は関東大震災が襲う。
 


みるみる再建し営業を再開した鶴屋呉服店はまた焼失してしまった(提供:株式会社松屋)

 
震災後は10月から11月にかけて東京4ヶ所、横浜2ヶ所に売店を開設し、震災後の物資不足に応えた。
 


地蔵坂上売店は鶴屋呉服店、鶴屋呉服店実用品部、鶴屋食堂と3軒の平屋で営業した
(提供:株式会社松屋)

 
一方で震災から3ヶ月後の12月、吉田橋横にあった横浜市伊勢佐木町警察署跡地の「土地借用願」を神奈川県知事に提出。横浜の中心的繁華街に進出する準備を進めていたのだった。



亀の橋から吉田橋へ
 


今回も松屋広報の名倉さんと1953年入社の佐柳さんのお話と資料をもとに歴史をたどる

 
1924(大正13)年2月7日、神奈川県から「横浜市伊勢佐木町所在旧伊勢佐木町警察署敷地」のうち227.48坪を賃借(1坪3円/月、期間は8月6日まで)し、3月15日に横浜市伊勢佐木町3丁目25番地の吉田橋横に、仮建築で鶴屋呉服店が新築開店する。
 


仮建築とはいえショーウインドーも備えた洗練された建物である(提供:株式会社松屋)

 
この吉田橋新店舗の完成にともない、地蔵坂上と二ツ谷の売店は閉鎖された。その後、1924(大正13)年8月7日、11月7日、1925(大正14)年5月7日と土地賃借契約を3回更新したあと、1925(大正14)年11月19日に土地売買契約が締結された。

1924(大正13)年には3月に日比谷売店、6月に四ツ谷売店、7月に銀座売店が閉鎖され、8月1日、今川橋松屋呉服店の新店舗が完成、開業した。

同年11月1日には横浜市真砂町4丁目57番地と58番地所在建物を横浜ビルディング組合より賃借し、11月10日に鶴屋呉服店別館(通称馬車道別館)を開店。鶴屋、松屋ともに震災から1年余りで震災前を上回る規模の体制を整える驚異的な復興をみせた。
 


馬車道別館の写真は残っておらず、若干不鮮明ではあるがこれが唯一のものだという
(提供:株式会社松屋)

 
翌1925(大正14)年5月1日には、東京市京橋区銀座3丁目に銀座営業所を開店。この営業所では「下足預り制」の廃止、食堂にサンプル棚を設置など革新的な試みがなされた(今川橋店舗は12月1日に松屋家庭部として営業開始)。

また開店記念の今様(いまよう)風俗人形陳列会は大きな評判を呼んだ。圧倒的な写実性を表現する生き人形師として活躍した安本亀八(長男が2代目、次男が3代目として同時期に活動)に、歌舞伎役者や、女優、芸者など100体ほどの制作を依頼し、開店を祝いディスプレーしたのである。
 


初代安本亀八(やすもと・かめはち)の代表作
『野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)』(フリー画像)

 
このように、横浜は亀の橋(石川町)から吉田橋(伊勢佐木町)、東京は今川橋から銀座へと拠点を移しながら震災を乗り越えていく。その過程で、横浜的には残念な展開だが、1926(大正15)年3月26日、本店は横浜の「鶴屋呉服店」から、東京市京橋区銀座3丁目10番地の「松屋呉服店」に移転することになる。