鎌倉にひっそりと存在する、資産家が妾に会いにいくために掘った「お妾トンネル」について教えて!
ココがキニナル!
鎌倉に小町と大町をつなぐ「宝戒寺トンネル」というトンネルがあります。資産家が妾に会いに行くために掘ったことから「お妾トンネル」といわれているらしくて、本当なのかキニナル(まさしさん)
はまれぽ調査結果!
宝戒寺トンネルは大町の加藤さんが隣りの小町と楽に行き来出来るよう昭和初期に掘った。加藤さんのご子息も「妾さんの通い道」と呼んでいたようだ。
ライター:橘 アリー
軍の防空壕として使われていた!?
まずは小町で聞いてみたところ・・・
小町で古くから営業している建築金物店の内田商店のご主人から
宝戒寺隧道は、第二次世界大戦当時は日本軍が通信機器などを置く防空壕として使っていた、と教えていただけた。
しかし、隧道を誰がいつ掘ったのかは、古い話なので分からないとのこと。
「お妾さんトンネル」とも呼ばれていることについても、そのような呼び方を聞いたことは無いとのことだった。
次に、ちょうど散歩中だった・・・
古くからこの地にお住まいの桐ケ谷(きりがや)さん(と愛犬のコロちゃん)
やはり、隧道を誰がいつ掘ったのかはご存じないとのことで、戦争中は軍の防空壕として使われていたと教えてくださった。
そして、現在のように隧道が補修される前は、隧道の出入口の上から、小石や蛇などが落ちてくることもあったそうで「お妾さんトンネル」と言う呼び方は聞いたことは無いが「蛇トンネル」と呼んだりする人はいたとのこと。
次に、大正時代にこの地に来られたという・・・
岸さんのお宅でお話を伺ってみた
現在のご主人は3代目で、お爺さまが別荘用にこの地を買われたとのこと。
お爺さまの岸敬二郎(きし・けいじろう)さんの石膏像
ちなみに敬二郎さんが抱いているのはご自身が開発した水力発電のモーター。
宝戒寺隧道について尋ねると、やはり岸さんも、誰がいつ掘ったのかはご存じ無いとのことだったが、ご自宅で保管している大正時代の地図を見せてくださった。
地図は1919(大正8)年発行のものである
地図で宝戒寺隧道の場所を確認すると・・・
青丸の所が宝戒寺隧道の場所
見づらいが地図上では道が途中で終わっていて、隧道の表記も無い。ここで宝戒寺隧道は、1919(大正8)年以降に掘られたことが推測できた。
続いて、大町でお話を伺うことに。
掘ったのは大町の人だった!!
大町も小町同様、閑静な住宅地となっている
最近は新しくこの地へ来られた方が多いそうだが、偶然、隧道の近くに古くからお住まいの久根口(くねぐち)さんと江坂(えさか)さんにお話を伺うことが出来た。
久根口さん。お出かけ途中であったが快く取材を受けてくださった
久根口さんと江坂さんは宝戒寺隧道を誰が掘ったのかもご存じだった。
伺ったお話によると、宝戒寺隧道は昭和の初めごろに、大町にお住まいだった加藤さんという方が掘ったとのこと。
加藤さんは、建設業など手広く商売をされておられた方で、大町から小町へ便利に行き来出来るようにと、自ら費用を出して掘ったそうである。
宝戒寺隧道が無いと、大町と小町の行き来は、祇園山を登るなどしなければならず不便であったそうだ。
隧道を通れば鶴岡八幡宮への参拝も楽に行ける
また、隧道の内部が現在のように補修されたのは、1988(昭和63)年から1990(平成2)年ごろにかけてのことだそう。隧道内が素掘り状態では危険なので隧道改修についても市と相談を重ね、補修工事が実現されたそうだ。
狭い隧道だが、灯りがついているので安心して通行できる
そういった経緯もあり古くから大町の住人である久根口さんたちは“宝戒寺隧道を加藤さんが掘った”と伝え聞いているそうだ。現在は、古くから隧道近くの大町に住んでおられるお宅は、今回の取材でお話を伺った2軒をいれて全部で3軒しか残っていない。
隧道近くの大町。豊な緑の中に数件の民家があるがほとんどは新しく越して来たお宅
加藤さんにお妾さんがいたのかについては、昭和初期のその時代は、資産家の方にお妾さんがいたというのはよくあったことで、加藤さんにもお妾さんがいたということは聞いているそうだ。
では、実際に「お妾さんトンネル」と呼ばれていたかどうか、もう少し調べてみることに。
トンネルの加藤!?
ここまでの調査で、小町の歴史に詳しい方や小町に古くから住んでおられる方々は「宝戒寺隧道」についてはご存じ無く、大町に古くから住んでおられる方々は「加藤さんが掘った」と知っておられた。
隧道が地図上は小町にあるので最初は調査対象にしていなかった大町の歴史を改めて調べてみることに。
鎌倉中央図書館で、大町について書かれた郷土資料を調べてみると・・・
『大町名越ゲェもネェ話』という資料を見つけた。なんだか、ちょっと違和感のあるタイトルであるが、それによると・・・
掘ったのは加藤新松さんで「トンネルの加藤」と呼ばれるほどのトンネル掘りの名人だった。昭和の初めに満州から帰国して鎌倉に住み、町の人も便利になるだろうと私財を投じて隧道を掘ったそうだ。
『大町名越ゲェもネェ話』を書かれたのは、大町の吉田友一(よしだ・ともかず)さん。
訪ねると残念なことに、友一さんはこの本を書かれた1993(平成5)年から2年後に亡くなられたとのこと。
しかし、友一さんの奥さまである実佐子(みさこ)さんに会うことが出来た。
実佐子さん。手に持たれているのが『大町名越ゲェもネェ話』
実佐子さんによると、1923(大正12)年の関東大震災後、この大町も不景気で仕事が無く困っている人が多かった。加藤さんは、そんな人々に、私財を投じてトンネルを掘る仕事を提供し、それによって地域の人々は随分と潤ったという。そして、掘られた土は暫く近くの畑に盛土されていたが、その後、その土で周辺の田んぼを埋め立てて・・・
現在は、このような住宅地となっている
なお、この資料が書かれた当時はご子息の方がご存命だったようで、ご子息は「妾の通い道」と笑っておられたとある。その女性は八幡宮の近所に住んでおられ、加藤さんのお仕事にもとても協力的だった。こういった経緯があり、隧道を掘った加藤さんがご存命だったころは「お妾さんトンネル」とも言われていたのであろう。
当の加藤さんは、確かに会いに行くのにも便利だったのでそれを陰口とはとらず、多くの人のためにという思いやりと男気のある人物だったようだ。
ご子息がご存命のころは、散歩している姿がよく見られたそうだ。ご子息は穏やかで俳句でも読みそうな雰囲気のある方であったよう。
隧道を掘った加藤さんのお宅は、暫く前までは宝戒寺隧道近くの大町にあったそうである。
お宅は写真の山の近辺にあったそうだが
お孫さんの代になり、しばらく前に、逗子へ越して行かれたそうで、直接お話を聞くことはかなわなかった。
取材を終えて
宝戒寺隧道を今日も多くの人が通り抜ける
トンネルを抜けた先に、人それぞれの目的がある
加藤さんが掘った「宝戒寺隧道」を通って、古都鎌倉の小町大町を散策してはいかがでしょうか。ただし、道幅が狭く両方向から車が来るので十分にご注意を。
―終わりー
参考資料
『大町名越ゲェもネェ話』 吉田友一著
こうやけんじさん
2021年09月01日 13時05分
毎日このトンネルを利用させていただいています。ありがとうございます。
ushinさん
2015年11月04日 00時07分
こういうトンネルなら「山行が」さんの独擅場! http://yamaiga.com/tunnel/gogaku/
マッサンさん
2015年11月02日 12時13分
トンネルの工期や工事の様子など色々知りたくなりました。