かつて戸塚区にあった人工スキー場「アストロ横浜スキー場」って何?
ココがキニナル!
戸塚区下倉田にあった人工スキー場はどうなった? 当時の様子を調べてください(まさぼーさん、熱いおやじさん、Tosh.さん)
はまれぽ調査結果!
「アストロ横浜スキー場」は1972年~1985年ごろまで営業していた。オーナーは同地で現在バッティングセンターを経営している
ライター:小方 サダオ
人工スキー場はどのようにして誕生したのか(つづき)
「数年後、三菱モンサント化学(現・三菱化学エムケーブイ、塩化ビニル関連事業などを手掛ける会社)さんよりアストロゲレンデを紹介されたのです。白一色で外観も本物のゲレンデに近く、スキー板が使えるなど、スキーヤーが納得してくれることを確信し、昭和50年ごろ、芝スキー場をアストロゲレンデに改装したのです」と話してくれた。
1977(昭和52)年のアストロスキー場(青矢印)
1985年(昭和60)年ごろの航空写真
アストロゲレンデとは、白い人工芝(冬季オリンピックのジャンプ台で使われているのと同じもの)にビーズを撒くことで、「真夏の白銀の世界」を実現した人工ゲレンデ。テレビ・新聞・雑誌などで紹介されたため、日本全国から来場者が多数あったという。有名芸能人もコマーシャル撮影などで来場し、韓国やルクセンブルクなど外国の視察団も訪れるなど、当時注目を集めたようだ。
改装を経て開場した「アストロ横浜スキー場」のゲレンデは幅約40メートル、長さ約100メートルだったという。ベルトコンベアー式のリフトで頂上まで上り、滑り下りるものだった。
鉄塔のあたりを山頂として滑り降りていた
鉄塔の位置(青枠)(昭和52年戸塚区明細地図)
盛況だったアストロ横浜スキー場だが、オープンから約13年後の1985(昭和60)年に閉鎖してしまう。その要因を伺うと「夏場は大変盛況なのですが、冬が近くなると本物の雪には勝てず、閑散となってしまいました」とのこと。
クラブハウスがあったあたり
また、「数シーズンが経過したころ、計画道路の整備やマンション建設など周囲の環境の変化により、スキー場は閉鎖せざるを得なくなりました。ゴルフ練習場も移転しバッティングセンターも閉鎖することになったのです」とも話してくれた。
ちなみに、現在も営業しているバッティングセンターは、1977(昭和52)年にゴルフ練習場とスキー場の間の谷間を利用して作ったもの。王貞治さんのホームラン世界記録達成の年でもあり、第二次バッティングセンターブームの到来を期待してオープンさせたという。
現在のバッティングセンターの様子
スキー場(青矢印)とゴルフ練習場(紫矢印)、バッティングセンター(緑矢印、昭和52年戸塚区明細地図)
「スキー場・バッティングセンター・ゴルフ練習場の閉鎖ですが、サミット株式会社さんより、『協力するのでビルを建て直しませんか』という提案があり、快諾したのです。建設については、屋上にゴルフ練習場を作ることを第一条件としオープンしましたが、ネットからボールが飛び出しマンションに飛び込むなどの問題が発生したため、バッティングセンターに衣替えし現在に至っています。屋上でのゴルフ練習場は2年間の営業でした」と答えてくれた。
取材中、バッティングセンターや併設する卓球場からプレイを楽しむ客の声が聞こえてきた。周辺環境の変化で縮小される形などになっても、さまざまなアイデアでスポーツ活動を応援したいという、根っからのスポーツ好きである吉原さんの強い思いがうかがえた。
バッティングセンターに併設された卓球場
パット練習用のマシーン
またアストロ横浜スキー場を運営していた当時、吉原さんが取材を受けた『朝日中学生ウィークリー』の記事によると、「ゲレンデの大きさは全長130m幅40m傾斜10度から25度。人工芝の上に直径3mmの純白のビーズをまいたもの。シュプール(スキーですべった跡)を描くとそれに合わせて白いビーズが舞い上がり、『雪煙』のようだ。リフトに乗って上り、滑るもので、滑り方は雪上のスキーと変わらないが、ビーズの上なので、初速はあまり出ない」
「利用者からは『スキー板がビーズで擦れやすいものの、スピードが出るのが良い』という感想があった。夏場にここで経験を積み、本番の冬スキーに備える人が多かった」とある。
アストロゲレンデでは雪とは違ったスピード感が楽しめたようだ。また暖かい時期に軽装で滑られる楽しさは、重装備が必要な冬場のスキー場とは違った爽快感があったのかもしれない。
かつては現在よりも自然に囲まれた場所であった