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元町百段公園が伝える横浜の光と影

元町百段公園が伝える横浜の光と影

ココがキニナル!

元町百段公園に光を当ててください。廃墟感が半端なく景色は良いのに観光客どころか地元にも見捨てられたような雰囲気が。名前の由来もキニナリます(横濱マリーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「元町百段公園」の成り立ちを調べていくと、開国から明治期に至る新興都市・横浜の誕生と繁栄、そして関東大震災が横浜に与えた被害の甚大さが浮き彫りになっていった

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ライター:結城靖博

「百段」の由来と往時の光景
 
ひと通り公園内の様子を調査した後、ふたたび銘板のはめ込まれた入り口の記念碑の前に戻る。碑の中央には、こんな古写真を焼き付けたタイルがはめ込まれていた。
 


記念碑中央の写真

 


写真の左には説明板があった

 
説明板には、次のような文章が刻まれている。
 
《元町百段
この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、たいへん眺望のよいところでした。右の写真は、当時前田橋から「元町の百段」を撮影した貴重なものです。元町二丁目から急な階段が百一段あったのですが、市民は「百段」と呼んで親しんだものです。
この場所には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋があり、外人の観光客もよくここを訪れています。浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(一八六〇年)に横浜の村人が元町へ立ち退いたとき、いっしょに移されました。
昔は、ここから港の出船入船や関内地区が手に取るように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せました。
この公園は、関東大震災で崩れて、今はない「百段」の歴史をここにとどめるように造られたものです。
横浜市 緑政局 中区役所》
 
公園になぜ「百段」という不思議な名前が付けられているのか、その由来は説明板が端的に言い尽くしていた。また、鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)に見守られた明治・大正期の元町の活況や「百段」の急峻さも、中央の写真からうかがい知ることができる。
 
ただ、記念碑の写真はちょっと見づらいので、当時の光景を写した写真をもう1枚掲載しておこう。
 


関東大震災以前の元町百段(『横浜大正大震災写真帖』所収、横浜市中央図書館所蔵)

 
記念碑の写真とほぼ同角度からとらえている。軒を連ねる店先の看板には英文も目につき、当時の元町のハイカラさが伝わってくる。通りを行き交う人々のざわめきまで聞こえてくるようだ。階段上の神社や茶屋らしき建物の様子も、記念碑の写真よりも鮮明だ。
 
撮影場所は、現在の元町2丁目と3丁目の境界線にあたる交差点付近。そして、手前左右に見えるのは前田橋の親柱(おやばしら=橋の両端に立つ太い柱のこと)。ということは、現在の同じ場所から同じ角度を眺めると、こういうことになる。
 


前田橋の橋上から元町百段公園側を臨む

 
画面中央辺りを元町のメインストリート・元町通りが横切り、その奥に山手の丘が見える。
 


さらに近づき元町通りの交差点付近から撮影

 
奥に元町通りの裏道・仲通りが横切り、通りの向かいにフランス料理の名店「霧笛楼(むてきろう)」がそびえる。前掲の古写真と照合すると、まさにその霧笛楼の背後付近に、かつて元町百段があったことになる。
 


もっと近づいて霧笛楼の横から元町百段があったと思しき場所を仰ぎ見る

 
写真の右上の大きな木が、公園にあった桜だ。
現在の公園と古写真の百段との位置関係をよくよく比較してみると、元町百段は階段下側から見て、どうも公園よりももう少し左にあったように思える。つまり、桜の木の左にある住宅地、そのさらに左辺りが元町百段のあった場所ではなかったろうか。
 


「元町百段」推定マップ © OpenStreetMap contributors

 
マップには中華街からの位置関係もわかるように朱雀門(すざくもん)も記しておいた。古写真から推測して、前田橋からまっすぐ続く通りの延長線上にあったのなら、百段階段はマップ中のピンクの線上のどこかから始まっていたことになるだろう。
 
このことは、下に掲載した古地図からも推測できる。
 


「横浜明細之地図」(部分、横浜市中央図書館所蔵)

 
横浜の鳥瞰絵図で名高い橋本玉蘭斎貞秀(はしもと・ぎょくらんさい・さだひで)が1870(明治3)年に描いた地図だ。上部から左下へ斜めに流れる川の中心部に前田橋、その左に鳥居のある通り、さらに斜面をせり上がる百段階段、そして頂上の浅間神社(せんげんじんじゃ)が描かれている。

とはいえ、百段と公園の位置関係のズレは、あくまで筆者の憶測にすぎない。それよりなにより、上の絵図から見て取れる元町百段の頂上からの当時の眺望を想像してみたい。
現代とは異なり、さえぎる高いビルも高速道路もなかった明治時代、そこから見渡す開港地はどれほどの絶景だったことだろう。まさに近代になって突如立ち現れた新興都市・横浜の中心部を一望できる、イチオシの名勝地だったにちがいない。
 


「元町百段」頂上付近と思しき場所(現在は空き地)から見た関内方向の眺め

 
そんな場所だったからこそ、公園の碑文にある通り、元町百段の頂は鎮守社の参詣を目的とするだけでなく、外国人も押し寄せる観光地だったろうし、前田橋から階段下まで続く門前町も多くの観光客でにぎわっていたことだろう。
 


現在のメインストリート・元町通り

 
今でこそ川向こうの中華街とは一線を画す、落ち着いた大人の魅力を放つ街として人気の元町。そこはかつて、元町百段とともに、現在とはまた異なる活況を呈していたわけだ。
 
ただしそこには、「あの一瞬までは」という断り書きがつくのだが・・・。
 
 
 
関東大震災がおよぼした甚大な被害
 
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、南関東を中心に発生した推定マグニチュード7.9の巨大地震「関東大震災」は、横浜にもすさまじい被害を与えた。

幕末のころまで、わずか100戸程度しかなかった半農半漁の村・横浜は、開国とともに一気に国際都市へと変貌し、関東大震災の前年(1922年)末時点で戸数9万3840戸、人口44万1048人にまで膨らむ(横浜市役所『横浜市第二十回統計書』、1926年)。

その新興の大都市が、巨大地震発生で一瞬にして壊滅してしまった。死者・行方不明者2万6623人、住家被害数3万5036棟。この数字は東京市に次ぐものだ。「震災府県」とされた1府6県の中でも東京市と横浜市に被害が集中していた。死亡・行方不明者に至っては、この二つの都市だけで全体の90%を占めていたという(中央防災会議『1923 関東大震災 第1編』)。
 
惨状の一端は、現在、元町公園の震災遺跡「山手80番館遺跡」で見ることができる。
 


山手80番館遺跡。残されているのは3階建て外国人住宅の地下室と基礎部のみ

 
関東大震災は、地震そのものの衝撃に加えて、その後の火災による被害が極めて大きかった。木造家屋が中心の日本の建築事情ゆえだろう。もちろん、元町の被害も甚大なものだった。
 


震災前の元町商店街(『横浜大正大震災写真帖』所収、横浜市中央図書館所蔵)

 


震災直後の元町商店街、9月中旬頃(『横浜大正大震災写真帖』所収、横浜市中央図書館所蔵)

 
上の2枚は、ほぼ同じ方向からとらえた写真だ。震災前、1218戸の家屋があり約6000人が住んでいた街は、火災によって一気に焼き払われてしまった。
 
そしてあの百段階段はどうなったかと言えば・・・
 


元町百段の崖崩れ、9月中旬頃(『横浜大正大震災写真帖』所収、横浜市中央図書館所蔵)

 
もはや101段の階段も、山頂の神社も茶店も、跡形もない。
 
横浜市役所が1924(大正15)年にまとめた『横浜市震災誌 第二冊』の中で、当時の状況を次のように伝えている。
元町百段は「地所約三十坪緒共転落してその真下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した」(現代仮名遣い・新字体に変更)と。
 
その後、横浜市では目覚ましい震災復興が進み、1929(昭和4)年4月23日には天皇行幸があり、この段階で復興事業は一段落したとみられる。帝都・東京の復興宣言に先んじること1年前のことだった。
ところが、このとき元町百段も浅間神社も再建されなかった。理由は、手の施しようがないほど、あまりにも激しい崩壊だったからだと言われている。
 
それから64年の歳月を経た1987(昭和62)年、浅間神社跡地付近に当時をしのんで「元町百段公園」が開園した。神社と古代ギリシャ・ローマ風の円柱というのもなんとも不思議な取り合わせだが、法隆寺の柱にさえエンタシス様式が見られるそうだから、まあいいか。
 
ただ、現在の元町百段公園から「元町百段」をイメージするのは難しい。当時の元町百段の様子を想像する手掛かりは、やはり高田坂(百段坂)の階段だろうか。
 


階段の中でもなるべく真っすぐなところに立って、「元町百段」に思いを馳せる

 
実は元町には、もうひとつ「百段」の名前が刻まれた場所がある。そこは、前田橋を渡ったあと霧笛楼に向かう道に入ってすぐ右手にある建物だ。
 


右側の白い建物。エントランスの上に「百段館」と書かれている

 
この商業ビルに「百段館」という名が付けられたのも、「元町百段」にちなんでのことのようだ。しかし、建てられたのは1991(平成3)年。ジュエリーショップなどが入るとても元町っぽいおしゃれなビルだが、歴史的建造物というわけではない。
 
 
 
なぜ公園に古代ギリシャ・ローマ風の円柱が設けられたのか?
 
現地取材を終えた後日、横浜市環境創造局公園緑地管理課に、なぜ元町百段公園に古代ギリシャ・ローマ風の円柱が建てられているのか問い合わせてみた。
しかし、都市公園台帳にも「本公園は、国有地を無償借受け、諸設備整備の上、公開した児童公園」との記載しかなく、柱の謎を解く記録は市にも残されていないそうだ。
 
また、浅間神社や百段階段との位置関係についても尋ねてみたが、「過去の地図上では、現在の元町百段公園の西側に浅間神社があった」ことまでしか把握していないとのことだった。
 
多少の謎は謎のまま残されているほうが、不思議感漂うこの公園の魅力は増すともいえる。いずれにせよ、観光名所にぐるりと囲まれてひっそりとたたずむ公園が、夜景と一本桜の穴場であることは確かなようだ。
 


元町百段公園展望テラスから望む夜景

 
 
 

取材を終えて


 
「元町百段公園」という奇妙な名前の公園の背景に、近代に生まれた新興都市・横浜の光と影が隠されていた。
それにしても、現在の元町商店街や山手の観光スポットからはとても想像できないことだが、関東大震災が横浜におよぼした被害が、いかに大きかったことか。明治期に築き上げられた新興都市の姿を一瞬にして変えてしまった巨大地震の恐ろしさを、あらためて思い知らされた。
今また、いつ大地震が来てもおかしくないと言われるなか、決して他人ごとではないと感じさせられる取材だった。
 
 
―終わり―
 
 
取材協力
 
◆横浜市中央手図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
◆横浜市環境創造局公園緑地部公園緑地管理課
住所/横浜市中区真砂町2-22  関内中央ビル7階
電話/045-671-2642

参考資料
『写真集 関東大震災』
編者/北原糸子
発行/吉川弘文館

『横浜・地図にない場所』
編集/横浜開港資料館
発行/横浜市ふるさと歴史財団

『横浜市震災誌 第二冊』
発行/横浜市市史編纂係

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  • オシャレな横浜、だけでない、地に足の着いたルポ。古地図や歴史的な資料(写真)は後世にしっかり残すべきものだと思いました。普段は見えない、関東大震災の深い爪痕から、改めて地震大国に住んでいることを痛感します。もっとおおやけに伝わってほしいと思います。

  • 横浜の重たい歴史を伝える素晴らしいレポート。山手80番館遺跡の猫ちゃんが可愛かった。

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