岡野欣之助氏が造った別荘「常盤園」はどこにあったの?
ココがキニナル!
その岡野良親御子孫、岡野欣之助氏が造った別荘「常盤園」。今の常盤公園より6倍も広かったそうですがどのエリアだったのですか?また当時の様子は?(yamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
当時の「常盤園」の様子を知ることは困難ですが、文献には賑やかだったかつての様子が残っていました。その範囲は現:常盤台のほぼ一帯でした。
ライター:ほしば あずみ
野趣に富んだ「常盤園」の賑わい
現在キャンパスがある場所は、1967(昭和42)年までは「程ヶ谷カントリー倶楽部 」という名門ゴルフ場だった。
1922(大正11)年に開場、翌12年には国内初の本格的な18ホールゴルフコースがオープンしたこのゴルフ場建設にあたり、土地の買い入れや借り入れに尽力したのも岡野欣之助、そして平沼新田を開発した平沼九兵衛の子孫、平沼亮三だったという。
平沼亮三は横浜市長を務め、市民スポーツの父と呼ばれた実業家でもある。
園内にはクスノキが多い。常盤園ではかつて防虫剤「樟脳」をクスノキから採っていた
公園の管理棟で話を伺ってみたところ、近所の小学生が地域学習で訪れたりする際には、公園の沿革として岡野欣之助についてふれる事もあるという。
現在の常盤公園は1942(昭和17)年、常盤園の入口付近の一部(約6分の1)を横浜市が買収して開設したもの。かつて桜の季節には坂道いっぱいに人があふれ、坂の途中に警官の詰所が設けられたというおもかげは、今は残っていない。
それは欣之助が理想の町づくりにとりくんだ岡野新田でも同様で、現在の岡野町にかつての様子がうかがえる建物等はない。
岡野家盛衰の顛末
1923年(大正12)年に発生した関東大震災。
横浜市内も建物は倒壊し道路は寸断され、一面焦土と化した。県立女子高等学校の校舎も、学校の存続があやぶまれるほどに倒壊した。
関東大震災で倒壊した県立女子高等学校の校舎
校舎に隣接していた岡野邸も、倒壊や焼失からはまぬがれたものの、やはり甚大な被害を負った。
そして第一次世界大戦後の不況で経営が傾いていた欣之助に、震災が追い討ちをかけたのである。
欣之助が頭取をつとめていた東陽銀行は、私財を注ぎ込み再建を図ったものの休業に追い込まれ、1929(昭和4)年、欣之助が他界した3ヶ月後には廃業となる。
常盤園もそういった斜陽の事情から売却され、次第に住宅などに変わっていった。
かつて岡野家の豪邸があった場所は面影もなく、マンションと地区センターになっている
主をなくした岡野邸は昭和初期には幽霊屋敷と呼ばれ、まもなく老朽化で取り壊されたという。
1000坪あまりの和風庭園「千歳園」があったあたり
欣之助没後の岡野家は、「崖から突き落とされたように苦労のしっぱなしだった(御子孫談)」とのことで、御子孫も多くを語ることなく今は都内で静かに暮らしている。
震災と、続く太平洋戦争の波にのまれ、次第に岡野家の偉業は知られざるものとなっていった。
まとめ
かつての規模をしのぶ事はできない常盤公園だが、今でも市民に親しまれ利用されていた。
また昔のおもかげも残っていなくても岡野邸跡や千歳園跡の写真でも感じられる岡野町の整然とした直線道路は、今に残る岡野新田のまちづくりにおける区画整理の名残といえる。
横浜全体の歴史で語られる機会は少ないかもしれないが、地域では地元の歴史として学び伝えていこうとする取り組みにふれることもできた。
規模は小さくなったものの、常盤台の小高い丘の上で今でも公園を楽しむ人々がいて、勉学に励む学生たちもいる。理想的なまちづくりを目指した欣之助の想いは、まだそこここに宿っているように思われた。
―終わり―
◆参考文献
「ものがたり西区の今昔 西区の今昔・編集委員会/編 西区観光協会」
「横浜の新田と埋立 内田四方蔵/編 横浜市図書館」
「ふるさと岡野 横浜市立岡野中学校/編」
「保土ケ谷区郷土史 上・下 保土ケ谷区郷土史刊行委員部/編」
「岡野新田と岡野欣之助 横浜市西区郷土史研究会平成23年度例会 山口精一」
◆取材協力
神奈川県立横浜平沼高等学校同窓会「真澄会」
http://www.masumikai.org
JS1FMVさん
2020年11月22日 20時04分
よく見る常盤園の門柱写真の場所は今住んでる2軒隣道。当時茶屋だったのが今住んでるところ。
高木規行さん
2012年01月07日 22時46分
相鉄腺和田町駅が神中鉄道常磐園下駅として開業したのが昭和5年9月10日、常磐園廃業後なんですね。 程ヶ谷カントリーが保土ヶ谷区(旭区)上川井町に移転したのは昭和34年1月に開かれた日米合同委員会で上瀬谷通信施設の電波障害防止制限地域設定の提案がなされ、上瀬谷基地周辺の開発ができなくなった為に昭和36年12月15日の閣議了解を経て移転となり、程ケ谷カントリー跡地には手狭になっていた南区清水が丘にあった横浜国大を移転させています。 横浜国大跡地は清水が丘公園と横浜清陵総合高校となり現在に至ってます。