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かつて水上生活を営んでいた人たちの生活環境とは?

ココがキニナル!

古い人の話によると、横浜では昔、川の上に住んでいる人がたくさんいたそうです。いったいどんな生活環境だったのか気になります(MRハニーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

水上生活者の実態は、ハシケと呼ばれる小舟を使った運送業に従事する者たち。ハシケの中に住宅を設けており、移動生活を送る者もいた。

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ライター:ナリタノゾミ

ハシケ運送業の栄枯盛衰

1859(安政6)年6月2日、横浜港が日米和親条約によって開港すると、土地を持たない農民が、横浜湾岸労働者としての職を求めて全国から一斉に集まってきた。ハシケ運送業者が土地を持たず、水上で生活するという習慣は、彼らによって根づいたのだろう。

開港直後は港の整備が不完全であり、強風が吹き荒れている間は、貨物船を着岸させての積荷の受け渡しが危険な状態であったという。そのため、貨物船があえて着岸をせず、沖合に停泊し、ハシケ運送業者が沖まで出て荷を受け取る、という形態が定着していったようだ。
 


イギリスの貨物船からハシケに荷が積み込まれている
(画像提供:日本水上学園)


田中さんによると、「横浜港の沖合に貨物船が停泊すると、ハシケ運送業者たちはタグボートと呼ばれる小型船でハシケを引っ張って、一斉に沖へ出て行った」という。
 


最近の山下ふ頭にて、タグボートがハシケをひいている様子


特に、ハシケ運送が繁栄したのは、昭和初期だった。この頃、中村川沿岸には、亀の橋を中心に大きな問屋街が形成された。直接内陸部に物資を運ぶことのできるハシケ運送は、問屋街の発展に大いに貢献したのだった。川岸の商店は、独自に荷揚げ場を持っており、荷が着くと、商店の店主は深夜まで荷揚げ作業に追われていたそうだ。
 


掘割川(大岡川の分流)の荷揚げ場の跡
 

埋められた荷揚げ場。左側がスロープ、右側が階段だったものと思われる
 

黄金町の大岡川沿いにある湧き水。船の給水スポットとして活用されていた


しかしながら、1960年代に入ると、ハシケ運送業は衰退の一途をたどる。
高島ふ頭の増設、出田町ふ頭、山下ふ頭、大桟橋ターミナルビルの建設が進み、大型船の着岸が容易になったこと、また、コンテナの時代が到来したことにより、ハシケ運送業者の出番は急激に減った。

さらに、この頃、本牧港湾団地の竣工に代表されるように、港湾労働者の住居が整い始め、生活環境が向上する。
 


本牧の港湾団地(本牧ポートハイツ)
 

本牧ポートハイツの脇を通り抜けていく神奈川臨海鉄道。コンテナが積まれている


1965(昭和40)年からは、港湾労働法が施行される。これにより、港湾労働者に登録制・届出制が採用され、さらにハシケ内に居住させないよう事業主に努力義務が課された(改正前「港湾労働法」第27条)。

戦争の影響で、一時低迷したハシケ運送業界は、戦後、やや勢いを取り戻したものの、時代の流れにかなわず、衰退する。それに伴い、水上生活を営む者の姿も消えていったのである。中村川には、持ち主を失ったハシケだけがしばらく漂っていたという。

残されたハシケの中でギャラリーや飲食店などを経営し、事実上の経営権を主張する者が現れたのは、この後のことだそうだ。
こうして、水上を利用した文化は、新たな来訪者により、引き継がれることになる。



取材を終えて

今回の取材では、多くの方にご協力いただきながら、実際に水上生活を送っていた人物の証言を得ることができなかった点に少なからず悔いを残している。

もっとも、多くの時間を割き当時の記憶を思い返してくださった田中さん、貴重な資料を提供してくださった日本水上学園の松橋さん、取材を全面的にバックアップしてくださった今井さんのお力で、水上生活者たちの生活環境を垣間見ることができた。
心から感謝申し上げたい。

今後、新たに貴重な証言や資料に出会うことがあれば、ぜひ改めて取材させていただきたい。


―終わり―


参考資料
・読売新聞(昭和42年3月22日)
・神奈川新聞(昭和42年3月23日)
・「横浜・中区史」(中区制50周年記念事業実行委員会)
・「横浜港史 各論編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「横浜港史 資料編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「写真集 昭和の横浜」(横浜市史資料室編)
・「昭和30年代の神奈川写真帖(上巻)」(アーカイブス出版編集部編)

今井さんの経営するアートスペース「と」についての過去の記事

 

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  • 船が社宅扱いだったことは知りませんでしたが、同級生で船に住んでいた人には住所があったと記憶しています。

  • ハシケ輸送が行われたのは、岸壁の水深が浅く、大型船が接岸できなかったためです。そこで、沖に船を留め、ハシケに荷を落としたのです。「ハシケ落とし」と言い、これで船を軽くして上に浮かばせた後に接岸させる「瀬取り」と言うやり方もありました。いずれにしても、「ハシケ輸送」は幕末の開港後に欧州から来たもので、昭和初期まで外国資本の企業によって運営されていました。それが日本人経営の会社になったのは、国家総動員法によって港湾事業は日本人のみに免許を与えることにしてからなのです。

  • 昭和28年~32年頃米軍の弾薬の積み込みに艀を使用していたことを記憶してます、港湾労働者に混じり学生アルバイトを経しおこずかいを稼いでいた記憶、船頭は自分のもち舟と運輸会社の2種類があり、どちらも海の男臭が多く有していた記憶があります、現在の海運物流は、近代化しましたね、大手鉄鋼に勤務した際鉄板の積み込みに艀を使っているようでした。、

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