横浜出身の戦前の大スター! 大歌手「渡辺はま子」ってどんな人?【後編】
ココがキニナル!
横浜出身の大歌手、渡辺はま子さんを知りたい。20世紀を代表する歌手であり、戦後に多くの兵隊さんをフィリピンの収容所から解放し、横浜港にも出迎えに行ったそう。(katsuya30jpさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
渡辺はま子は「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒット曲を持つ、戦前から戦後にかけて活躍した歌手。フィリピン収容所から囚人の解放運動に尽力した。
ライター:松崎 辰彦
“この人でなければダメだ”──加賀尾師に惚れ込んだ植木青年
「なぜここまでやったのかと問われると困るんだけど、私もハマりこむほうなんですよ。加賀尾先生に惚れ込んじゃったんですよ。私を絶対的に信頼してくれて」
植木信吉氏はいまだ力のある声で話した。
植木信吉氏。座間のご自宅で
神奈川県座間市。ここに植木氏の自宅がある。書斎にはモンテンルパ関係の資料が整理整頓されてならび、その几帳面な性格が表れている。
書斎はモンテンルパ関係の資料で埋めつくされている
『問天誌』も残されている
アルバムも多い
囚人解放において、植木氏がどれほどの役割を果たしたかは、これまで多くが語られてきた。
小林弘忠著『天に問う手紙』。植木氏を中心にモンテンルパの戦犯釈放劇を描く
植木氏は、囚人の帰国後も、留守家族会から発展したモンテンルパの会を継続させ、定期的に会合を持つなどの活動を行ってきた。モンテンルパは、彼の人生のすべてといってもよかった。モンテンルパの会の活動に不都合なことは、たとえ職場の辞令でも断るなど、尋常ではない情熱を持って、元戦犯のその後の人生を見守った。
加賀尾師とともに戦犯救出に奔走していたときは、無我夢中だった。すべてを捨てて、いつ終わるかわからない闘いに挑んでいた。職場の異動の話も断った。婚約者もいたが、結婚など後回しだった。給料の3分の2を活動につぎ込んだともいう。モンテンルパへのあまりの没頭ぶりを上司から怒られ、同僚からも非難されたが、そんなことを意に介してはいられなかった。
囚人からの手紙。感謝の言葉が綴られている(クリックして拡大)
植木氏のなした働きは、たしかに役人の分を超えていた。それが青年の正義感から発せられたことも間違いなかろうが、しかし60年後のつい最近まで、モンテンルパの会の世話役を引き受け、元戦犯たちとの交流を保つとは、もはや宿命としかいいようがない。
加賀尾師の写真を見つめる植木氏
「最初、加賀尾先生に教誨師をお願いしたときは“この人で大丈夫かな”と不安でしたが、知れば知るほど“この人でなければダメだ”と思うようになりました」
加賀尾師について“私にとって神様のような、父親のような人”と回想し、“あんな気の合う人は滅多にいない”と述懐する。
加賀尾師(中央)と植木氏(右)(提供:植木信吉)
加賀尾師の人間性に、若い植木氏が惚れ込んだことが、モンテンルパ戦犯救出のきっかけとなったようである。
日本に帰る船上での加賀尾師と植木氏(提供:植木信吉)
渡辺はま子がモンテンルパの戦犯に関わっていることについて、売名行為と揶揄する人もおり、植木氏にもそんな雑音が入ったようだが、はま子とつきあううちに、彼女が本気で戦犯解放を願っていることが分かった。
それからは、はま子さんと本当にいいつきあいをしましたよ、という。
前列左から二人目より金山参事官、はま子、植木氏。問天会で(提供:植木信吉)
植木氏とはま子。右は元死刑囚の五反田栄一氏
テレビ番組「人に歴史あり」に出演するはま子。後ろに植木氏の姿も
フィリピンで御霊に花を捧げるはま子(左から3人目)と植木氏(提供:植木信吉)
14名が処刑された件では、
「あれは冤罪だったんです。いい加減なケースだったんですよ。あれで、なんとかしなきゃならんという気になった」
と、無実だったことを強調する。
帰国前、処刑された仲間に別れを告げる囚人たち。後ろは処刑台(提供:植木信吉)
そして晴れて全員の釈放が決まったときの心境を聞くと、「いやうれしかったね・・・こんなこともあるんだと思ってね。本当にうれしかったね。本当になんていうのか、もう話にならないですよ」と、相好を崩す。
あらためて自身のなした仕事を振り返り、何を思うだろう。
「自分ではいい仕事をしたなと思っています。誰がなんといおうと、私自身は誇りに思っています」
現在、93歳の植木氏。その言葉は、最後まで朗らかで力強かった。
近衛師団歩兵第一連隊時代の植木氏(提供:植木信吉)
来春再演される「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」
渡辺はま子とモンテンルパの関わりについては、過去に何回か舞台化されている。
2001(平成13)年、女優・五大路子さんの率いる横浜夢座は「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」を上演した。
五大さん演じる渡辺はま子は、歌の力で人々を励まし、モンテンルパにも慰問に訪れて戦犯たちを勇気づける。
はま子と五大さんの関わりについて、五大さんご本人に聞いた。
「1999(平成11)年の大晦日に、渡辺はま子さんが亡くなった知らせを聞いて、何か感じるものがあったんです。新聞で彼女の回想記を読み、モンテンルパのことも初めて知りました。それで舞台化したいと思いました」
五大路子さん
はま子のどこに惹かれるかを聞くと、「夫も子どももありながら、国交のないフィリピンに身を挺して乗り込んでいくことに、人間として魅了されました」と語る。
「一人の女性が一つのことにここまで立ち向かって行かれるということは、どういうことなのかを知りたかったですね。はま子さんを通してもう一度自分たちの時代を振り返らなければならないと考えて演じたのが14年前でした。まだ関係者の方々が存命でおられて、最後は全員で『あゝモンテンルパの夜は更けて』を合唱して、涙が出ました」
その後、彼女はモンテンルパの会の会合にも参加し、そこで多くの交流を持った。
2014(平成26)年、植木氏自宅での問天会に参加して(提供:モンテンルパの会))
そして夢座結成15周年の来年「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」が再演される。
五大さんがはま子を演じる
「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」に注目が集まる(クリックして拡大)
「1月にランドマークで上演します。それから、はま子さんの卒業した捜真(そうしん)女学園でも、生徒さんを対象に上演します」
多くの人に観てもらいたいと目を輝かせる。
生前のはま子から五大さんに贈られた色紙
大歌手、渡辺はま子。横浜に生まれ横浜に死んだ彼女の名は、妖艶な『蘇州夜曲』や『支那の夜』、そして『ああモンテンルパに夜は更けて』にまつわる戦犯釈放の物語とともに、人々に語り継がれることだろう。
取材を終えて
『あゝモンテンルパの夜は更けて』にまつわるドラマは書籍になり、演劇にもなった。五大路子、斉藤由貴といった横浜を代表する女優たちがはま子を演じている。彼女らの演技は人々の感動を誘い、高い評価を受けた。
同胞愛に燃えた宗教家、国家官吏、そして芸術家の出会いが、このドラマチックな解放劇を生んだのだった。この三者の出会いこそが、“奇跡”だったのではないだろうか。
囚人の特赦令にサインをしたキリノ大統領の心中はいかなるものだったろう。日本人に妻と子を殺された男が、日本人を赦したのだ。
表向きはキリスト教的人道主義と、日本とフィリピンの一層の友好を見据えてというフィリピンスポークスマンの発表があった。しかし、真相は謎といわれている。
サインを終えた彼の脳裏に浮かんだのは、釈放を喜ぶ日本人戦犯の笑顔だろうか、それとも亡くなった妻と子の面影だろうか。
はま子はその後も歌い続け、1973(昭和48)年に紫綬褒章、1981(昭和56)年に勲四等宝冠章を授章した。
横浜開港百年祭の記念式典で歌うはま子
(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)
フィリピンの戦犯関係者は、その大部分がすでに世を去り、天の住人となっている。日本人の戦争の記憶も、日一日と遠くなっている。
いまや伝説となったモンテンルパの物語。一人の偉大な歌手の人生とともに、その記録を後世に伝えたい。
加賀尾秀忍師の書「感謝」
―終わり―
参考文献
『モンテンルパの夜はふけて 気骨の女・渡辺はま子の生涯』中田整一(NHK出版)
『天に問う手紙 無実の戦犯救済に半生をささげた植木信吉』小林弘忠(毎日新聞社)
『モンテンルパに祈る』加賀尾秀忍(図書刊行会)
『モンテンルパの夜明け』新井恵美子(潮出版社)
『あゝ忘られぬ胡弓の音』渡辺はま子(戦誌刊行会)
他
たこイチローさん
2014年12月15日 18時48分
もう30数年も前のことになりますが、学生時代、百貨店の配送のアルバイトをしていたときに、はま子さんのお宅にお届け物に行ったことがあります。チャイムを鳴らすと、ガウンをひっかけてハンコを手にしたご本人が出てらして(前編に掲載されていた晩年のお姿!)ちょっとビックリしたことを思い出しました。はま子さんのことはご高齢の方しかすでにご記憶にないかもしれませんが、「支那の夜」は私の脳ミソにもしっかり染み付いています…って、私もとっくに「ご高齢」でした(笑)。